サッカーにおいて特別な関係にある日本と韓国は、切磋琢磨しながらアジアをリードしてきた。1965年の日韓国交正常化から60年の節目に、日本代表の森保一監督(56)と韓国代表の洪明甫監督(56)が記念対談を行った。選手として代表戦やJリーグのピッチで同じ時代を生き、両国を率いる立場となった2人が2カ国の過去、現在、未来を語り合った。
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-日韓両国にとって、お互いの存在とは。
森保 仲間であり、ライバル。日韓戦は一番プレッシャーがかかる試合かもしれない。だからこそ、そこでの成長があると思う。
洪明甫 韓国にとって日本の成長が一つのモチベーションになった。私をサッカー人として成長させてくれたチームの一つでもある。
-1992年の国際大会、ダイナスティカップで2人は両国の代表として初対戦した。
森保 私にとって初の日韓戦。プレーできることがうれしかったし、(外から)見ていた世界なので不思議な感じがした。日本はJリーグができるということで力をつけていて、(0-0だったが)熱い戦いができた。
洪明甫 当時の日本は新しい選手が出てきた時期。未来へ向けて準備していると感じた。
-93年はドーハでのワールドカップ(W杯)米国大会アジア最終予選で対戦し、日本が勝利。
洪明甫 負けてしまってW杯出場が難しくなったが、(最終的に)運良く行くことができた。日本は着実に成長していて、93年の時は本当にいい選手が多かった。いずれ日本がW杯に出場するだろうと強く感じた。
-印象深い日韓戦は。
森保 歴史の流れから言うと韓国がアジアのトップを走って、日本が追い付いていった。今は日本がレベルアップし、ライバルとして切磋琢磨してアジアを引っ張る仲間。印象に残っているのは、私はプレーしていないけど、98年W杯フランス大会の予選。日本がアウェーでW杯への道をつないだ。実は見に行っていた。日本がW杯に出場するには韓国という大きな壁を乗り越えないといけないんだと考えていた中で、日本が勝った。
洪明甫 韓日戦はお互いにサッカーを超えた一つの大きな勝負。印象的な試合は三つあり、93年にドーハで0-1で負けた試合、97年9月に日本で行われたW杯予選で2-1で勝った試合、指導者として2012年のロンドン五輪(3位決定戦)で勝利した試合だ。
-両国関係においてサッカーが果たす役割は。
森保 本当に両国が世界で勝っていくために、これまでではなく、これからの関係性をつくっていければ。ちょうど同世代の代表監督。次の世代にもつながるように洪明甫さんと協力してやっていきたい。日本と韓国が良きライバル、仲間としてつながることが一般社会にも波及していけばうれしい。
洪明甫 韓日関係で皆さんに思い出してほしいことがある。1998年W杯予選、ソウルの試合で「一緒にフランスへ行こう」という横断幕を韓国サポーターが掲げた。2002年W杯の時は韓国が16強、8強、4強と勝ち上がる中で日本でもたくさんの方が応援してくれたと聞いている。そういうことがあったというのを忘れずに、お互いに新しい未来を築いていければいい。(敬称略)
◆森保 一(もりやす・はじめ)1968年8月23日、静岡県掛川市生まれ、長崎市育ち。現役時代はJリーグの広島や仙台などでプレー。93年10月、W杯初出場を目前で逃す「ドーハの悲劇」を経験。日本代表35試合1得点。12年から広島を率いて3度のJ1優勝。17年に東京五輪に挑む日本男子の監督に就き、その後フル代表の監督を兼任。16強入りした22年W杯後も続投した。
◆洪 明甫(ホン・ミョンボ)1969年2月12日生まれ。90年からW杯4大会連続出場。主将で臨んだ02年日韓大会は4強。「永遠のリベロ」の異名を持つ。97年にJリーグの平塚(現湘南)入りし、99~01年は柏でプレー。監督として12年ロンドン五輪で韓国男子を率い、銅メダルを獲得。フル代表を指揮した14年W杯は1次リーグで敗退した。昨夏、10年ぶりに韓国代表監督に復帰。