【野球】沖縄水産・栽監督の涙を忘れない 終戦記念日8月15日の勝利後に流す

 1985年8月15日、沖縄水産の故栽弘義監督がお立ち台で流した涙を私は忘れない。いや、忘れてはいけないと思う。

 2年ぶりの“夏”が戻ってきた。「第103回全国高等学校野球選手権」が甲子園で開幕した。11日に行われた1回戦の横浜-広島新庄戦では、横浜の1年生・緒方漣(16)が大会史上初となるサヨナラアーチを放つなど甲子園ならではの熱い戦いが広げられる。

 私も若手記者時代、何度か甲子園の取材にかり出され、灼熱(しゃくねつ)のアルプススタンドも回った記憶がある。その後、プロ野球担当記者として“再会”を果たすことになった高校球児は何人もいる。PL学園の桑田真澄、清原和博、東北の佐々木主浩、高知商の中山裕章など、ドラフトで指名された選手も多い。

 選手だけでなく、あまたの名監督と呼ばれた指導者も取材したが、特に印象深かったのが沖縄水産の故栽弘義監督だった。

 85年夏の「第67回全国高等学校野球選手権大会」のことである。8月9日の第4試合で函館有斗に11-1と大勝した沖縄水産の原稿を書いた私は、15日の第2試合、沖縄水産-旭川龍谷の試合も担当することになった。この試合は3-1で沖縄水産が勝利したが、実は試合のことはあまり覚えていない。だが、栽さんの言葉は鮮烈に記憶している。

 1941年に沖縄の糸満で生まれた栽さんは、悲惨な第2次世界大戦の犠牲者だった。4歳のときに沖縄戦に遭遇し、3人の姉を失い、自らも背中に重傷を負った。

 栽さんにとって終戦記念日の8月15日は、決して忘れてはならない日だ。その8月15日に行われた試合で勝利をもぎとった。さまざまな思いが交錯したことだろう。

 通路の両側が遮断され、サウナの中にいるような通路に置かれたお立ち台の上で、栽さんは流れ落ちる汗をタオルで拭いながら、淡々と勝利監督インタビューを受けていた。

 栽さんのすべての言葉、表情を記憶しているわけではない。だが、そのインタビューが終盤に差し掛かると、残酷な質問が飛んだシーンは忘れない。

 8月15日の終戦記念日を念頭に置いた沖縄戦の話だった。栽さんは3人の姉の話、自らの背中に受けた傷の話を語り始めた。その途中で涙が頬を伝ったが、タオルで顔を拭いながら時間の許す限り話をしてくれた。「野球ができる今の時代に感謝している」という言葉には、沖縄戦の体験した人だけにしか分からない重みを感じた。私はメモをとる手を止めてただ話に聞き入っていた。

 晩年の栽さんにはトラブルの話があった。だが、あのときみせてくれた涙にウソはない。高校野球はグラウンド外にもさまざまなドラマがある。そんな思いを強く抱かせてくれた8月15日が、今年もやってくる。=敬称略=(デイリースポーツ・今野良彦)

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