【野球】王監督就任5年目の悲願のダイエー優勝に絡めず オープン戦での右肩負傷→シーズン途中での昇格→首脳陣との衝突→手術…プロ入り最少出場に終わった1999年の湯上谷さん

 南海から譲渡されて11年目の1999年、王貞治監督率いるダイエーホークスは悲願の優勝を成し遂げた。就任から5年目、南海時代の1973年以来、26年ぶり13度目のリーグ優勝だった。だが、ホークス一筋に歩んできたいぶし銀は、ようやくチームがたどり着いた優勝に絡むことができなかった。現在、福岡市内のもみほぐし店「りらくる」でセラピストを務める湯上谷竑志さん(59)が当時を語った。

  ◇  ◇

 チームが念願を果たし歓喜に沸いたその年、湯上谷さんの試合出場は20試合にとどまっている。右足手術の影響で1年間離脱した南海時代の89年をのぞいて、プロ入りして以来、最少の数字だった。

 3月22日に横浜スタジアムで行われた横浜とのオープン戦で右肩を痛めたことが、のちのちまで響いた。

 「点数をめちゃくちゃ取られた試合だったんです。雨も降ってきて寒くて。早く終わりたいのにと思ってたら、セカンドゴロが一、二塁間に来て。ダイビングしたら足が滑って、ボールはキャッチしてアウトは取ったんだけど、右肘から落ちて、だんだん肩が重くなって上がらなくなった」

 両軍合わせて32安打31得点の乱打戦となった一戦。試合途中で湯上谷さんはベンチに退いた。

 福岡に帰り病院で検査を受けると右肩の関節唇を痛めていることが判明。「骨と骨(のつなぎの)部分がぶつかって腫れて動かなくなっていた」という。

 その後、長期離脱につながる手術を回避して試行錯誤しながら2軍に帯同。「痛みがないことはないけど、ボールをキャッチして投げるとか、そういうのはなんとかできた。肩が上がらない状態で脇を締めた状態で投げたりしてました」

 ある時、1軍の試合をテレビで見ていると、若手内野手がエラーをした。

 「バント処理かなんかでボールをポロッと落として。王監督の怒った顔が画面に映った瞬間、もしかしたら呼ばれるんじゃないかなと思ったら、その後マネジャーから電話がかかってきて」

 慌てて雁ノ巣球場にあった荷物をまとめてチームに合流。5月28日の西武戦に遊撃でスタメン復帰した。2軍戦には出場していたが、肩の状態は万全ではなかった。負担のかかるショートの守備はきつかったが、だましだましのプレーを続けた。

 「ボールを取ったら、ほぼ走りながら距離を短くしてスナップスロー。打つ方もバットを短くもって当てるだけ。夏場以降は打つのもきつくなってきて。スリーバントでセーフティーをやったらファウルになってアウト。ベンチに帰ったら、黒江さんから“何やってんだ”と怒られて」

 思うように体が動かないいら立ちからか、黒江透修助監督の叱責に反射的に言葉を返した。

 「“こっちも痛いんだよ、無理して出てんだよ”って言ったら、はじかれて。それから手術をしました。トレーナーには、肩がちょっと厳しいからって言っといてねと話してはいましたが、それが伝わってたかどうかは分かりません」

 限界を迎えた肩の状態、首脳陣との衝突。湯上谷さんは1軍を離れた。

 9月25日に福岡ドームで行われた日本ハム戦で、チームは悲願の初優勝を達成。中日との日本シリーズも制し、日本一に上り詰めたが、湯上谷さんに出番はなかった。

 チームが連覇を達成する2000年も、開幕1軍メンバーに名前を連ねることはできなかった。

 「2000年も僕、最初からは出てないんですよ。その年も夏場後半から出ていって。その時でもまだ完全じゃないんですよね。打つ方も全然だったし、どうしようもない状態で2000年になったんです。それで結局、悪送球で終わっちゃったわけですよ。日本シリーズで」

 王ダイエーと長嶋巨人の対戦に沸いたミレニアムシリーズ。今なお心に深い傷となって残っている1プレーを湯上谷さんは語り始めた。

(デイリースポーツ・若林みどり)

 ◇湯上谷竑志(ゆがみだに・ひろし)1966年5月3日生まれ。富山県出身。石川・星稜高から84年のドラフト2位で南海入り。1年目から遊撃手として1軍出場を果たす。ダイエー時代の90年からは二塁のレギュラーとして活躍し3年連続全試合に出場。内外野を守れるユーティリティープレーヤーとして活躍し、2000年に引退。プロ在籍16年で通算1242試合、打率・258、141盗塁。ソフトバンクの育成、1、2軍の内野守備走塁コーチを務めた。現在はもみほぐし店「りらくる」福岡小笹店のセラピスト。

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