【野球】「血がバーッと広がって、気絶して…」心臓に死球受けホーム上で吐血 クロスプレーでは1シーズンを棒に振るスネの骨折も 相次ぐケガに見舞われたホークス湯上谷さん
ホークス一筋に16年、内外野を守れるユーティリティープレーヤーとして活躍した湯上谷竑志さん(59)は現在、福岡市内のもみほぐし店「りらくる」でセラピストとして働いている。現役時代は「ガメ」の愛称で親しまれ、細身の体を張ってグラウンドを駆け回った。試合中には幾度となく大きなケガに見舞われホームベースを血で染めたことも。戦線離脱も余儀なくされた経験を回想した。
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現役時代の自分を湯上谷さんは、こんなふうに表現する。
「小っちゃいキャラでちょこちょこしてましたね。体が細かったし、普通の感じというか。野球選手?っていつも言われてましたね」
公称176センチ、73キロ。プロ野球選手と思ってもらえないことも多かったという細身の体は、度重なるケガにも見舞われた。
「大きいケガといったら、心臓に山田久志さんのボールを受けたことですかね。一瞬、息ができなかった」
1987年9月23日、西宮球場での阪急戦。山田投手が通算280勝を飾ることになる試合で、湯上谷さんは左胸に死球を受けた。その場に倒れ込みせき込むと、白いホームベースが血で真っ赤に染まったという。
「毛細血管がバッと切れた時に、肺のところに血が詰まるんですよ。その時にせきをしたんですけど、血がバーって広がって、それを見て気絶してしまって。苦しかったですね」
初めて乗せられた救急車では、遠い意識の中、名前を呼ばれながら針でつつかれている自分がいた。幸い骨に異常はなく左胸部打撲の診断で一晩入院して退院。その後、同27日の日本ハム戦から復帰することができた。
翌88年の8月5日の日本ハム戦(大阪球場)では、松浦宏明投手のフォークボールが落ちずに顔面を襲った。
「松浦は同級生で、彼のフォークを、ひとつ間を置いて打つのが好きだったんです。その時、フォークだってわかった。普通に落ちてくれれば多分打てるんですけど、鼻の所に当たって鼻血ブーになって」
またも救急車で病院へと運ばれた。結果は上アゴと鼻骨の骨折。食事を取ることもできず点滴を受け続けた。
2日間病院で過ごした湯上谷さんは、復帰戦となった11日の西武戦でうっぷんを晴らすように大暴れした。先制打に本塁打を含む3安打2打点。勝利に貢献した試合後「点滴パワーですよ」と笑顔で語っている。
88年の秋季キャンプでの負傷は1シーズンを棒に振る大ケガとなった。
「今も傷があります、残ってるんです」。右スネに残る縫合跡を湯上谷さんは見せた。
11月の呉での秋季キャンプ。シートバッティングでのクロスプレーで捕手と激突した。「セカンドからホームに帰ってきた状況でガツンとぶつかって。足が痛くて動けない状態になったんですが、コーチからは“はよ、どけ~”って言われて。痛くて動けないです!って」
別のコーチにベンチまでおぶわれ、病院で検査を受けると脛骨(けいこつ)骨折が判明。帰阪して手術を受けることになった。
「折れたところが複雑骨折気味で。ヒザからくるぶしのところまでピンを通して、骨片もつなぎ合わせて固定。そこから半年入院しましたね」
骨がつながった段階で、ピンを取り除く手術も受けた。
復帰に向けてありとあらゆることをやった。「骨にいい温泉に行ったり、スキューバ用のプールでアクアエクササイズをやったり。次の年の開幕までになんとか間に合わせる形で、ずっと練習しましたね」
大ケガを負った88年は、パ・リーグに激震が走った年だった。9月14日に南海はダイエーへの身売りを発表。湯上谷さんは南海としての最後の年を遊撃のレギュラーとして過ごし初めて規定打席にも到達していた。だが右スネの手術、リハビリの影響で89年のダイエー初年度は1軍戦に出場することができなかった。
逆襲は翌90年から始まることになる。(デイリースポーツ・若林みどり)
◇湯上谷竑志(ゆがみだに・ひろし)1966年5月3日生まれ。富山県出身。石川・星稜高から84年のドラフト2位で南海入り。1年目から遊撃手として1軍出場を果たす。ダイエー時代の90年からは二塁のレギュラーとして活躍し3年連続全試合に出場。内外野を守れるユーティリティープレーヤーとして活躍し、2000年に引退。プロ在籍16年で通算1242試合、打率・258、141盗塁。ソフトバンクの育成、1、2軍の内野守備走塁コーチを務めた。現在はもみほぐし店「りらくる」福岡小笹店のセラピスト。





