【野球】阪神戦力外から紆余曲折経て野村ヤクルト合格 現役続行→優勝&日本シリーズ経験 84年センバツV投手

 東京・岩倉高校のエースとしてセンバツで初優勝を飾った山口重幸さん(59)は、阪神でユーティリティープレーヤーとして活躍したが、1994年のオフに戦力外を告げられタテジマのユニホームを脱いだ。現役続行の道を模索した山口さんに手を差し伸べたのはヤクルト・野村克也監督だった。移籍初年度に山口さんは自己最多となる77試合に出場し、優勝、さらに日本シリーズも経験した。

  ◇  ◇

 右ひざの手術から1年をかけて復帰したものの、阪神から戦力外を通告された山口さんは、現役を続行するため動いた。

 阪神時代に世話になっていたコーチで、中日の2軍監督に就任していた島野育夫さんに電話をかけた。

 「じゃあ来いよと言ってくれてバットを持って名古屋に行ったんですが、オレじゃあ力がないからってことになって。でも島野さんが南海時代のつながりで、松井優典さんに電話してくれて」

 野村克也監督のもとでコーチを務めていた松井氏に間に入ってもらい、ヤクルトの秋季キャンプが行われている宮崎・西都へ向かった。

 夜に対面できた野村監督に現役続行への思いを伝えた。

 「実は1年前に手術して、もう1年やりたいんですって言ったら『分かった、とるから帰れ』って。『知ってるから。おまえあの試合で打ったやろ、ライト線に』って。僕がヤクルト戦でオマリーに代わってサードに入って打ったことを覚えてくれてたんですよ」

 野村監督はプレーを見ることなく、あっさりと合格を告げた。

 指揮官が「知ってる」と持ち出したのは、92年4月5日、開幕2戦目のヤクルト-阪神戦(神宮)。途中出場した山口さんは、延長十回に右線へ勝ち越し二塁打を放っていた。90年からヤクルトの指揮を執っていた野村監督は、ユーティリティープレーヤーとして活躍する山口さんの守備力も買っていた。

 ヤクルトでの1年目。山口さんは自己最多となる77試合に出場した。

 「サードかセカンド。スタメンで出る時はセカンドですかね。1回ショートも守らされたけど、足が無理だって言って」

 試合終盤にミューレンと交代して三塁を守ることが大事な役割となっていった。

 その年、ヤクルトは2年ぶりの優勝を遂げた。阪神入りした85年にチームは優勝しているが、1軍出場はなかった。ヤクルト移籍1年目の95年は、戦力としてチームに貢献して初めて経験する優勝だった。

 オリックスとの日本シリーズの際には、うれしいことがあった。

 阪神時代に世話になっていた岡田彰布選手とのグリーンスタジアム神戸(現ほっともっと)での再会だ。93年に阪神を退団した岡田氏は翌年からオリックスに移籍。優勝を花道に引退することになっていた。

 「『長いことやるもんやな~グッチ』って声かけられて、握手して」

 タテジマを脱ぎ、互いに違うユニホームを着て優勝を経験した2人。感慨はひとしおだった。

 山口さんはシリーズ第1戦に守備固めとして出場した。飛ぶ鳥を落とす勢いだったイチローを封じて初戦を取ったヤクルトは4勝1敗で日本一に輝いた。

 翌年も山口さんは62試合に出場。移籍後の2年をずっと1軍で過ごした。

 「野村さんが気を使ってくれてたのか、1回も2軍に落ちなかったんですよ。でもミューレンが退団すると、自分は要らなくなるじゃないですか。彼がサードにいるから僕が(守備固めとして)いたわけですから。それで、来年は戦力外だからと言われて」

 他球団からの誘いは断った。ミューレンが退団した96年オフに山口さんは現役を引退した。阪神で10年、ヤクルトで2年。12年の現役生活だった。

 「そしたら野村さんから、おまえは元ピッチャーだから、打撃投手をやりながらスコアラーをやれって言われて。できるわけないでしょって言ってたんですけどね」

 高校時代で“卒業”していた投手。当初は尻込みしたが、そこから山口さんの第二のプロ野球人生が始まった。

(デイリースポーツ・若林みどり)

 ◇山口重幸(やまぐち・しげゆき)1966年6月24日生まれ。東京都出身。岩倉高校(東京)3年時の84年、センバツにエースとして出場し優勝を果たす。84年のドラフト6位で阪神入り。内野手に転向し10年間在籍。95年からヤクルトで2年間プレーした。通算283試合に出場し41安打、1本塁打、15打点、打率・202。引退後は打撃投手、スコアラーなどを務め23年に退団。24年4月から母校の野球部コーチを務める。

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