【野球】甲子園初出場の“鉄道学校” デゴイチ打線で快進撃 エースの山口さん投打で活躍 特別専用列車の大応援団も後押し
1984年に岩倉高校(東京)のエースとしてセンバツ優勝を果たし、阪神、ヤクルトでユーティリティープレーヤーとして活躍した山口重幸さん(59)は、昨年4月から母校の野球部コーチを務めている。97年の夏の大会を最後に甲子園から遠ざかっている同校。夏の大会予選を前に、かつて快進撃を続けて甲子園の頂点を極めた当時の思い出を聞いた。
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甲子園初出場を決めた84年のセンバツ大会で、岩倉の下馬評は高かったわけではなかった。
優勝候補の筆頭だったのは夏春連覇を目指すPL学園。前年夏に大会制覇に貢献した2年生の清原選手、桑田投手のKKコンビは注目の的となっていた。
ただ、岩倉も話題は集めていた。前年11月の明治神宮大会では決勝で、京都商を1安打完封して初優勝。エースとしてチームを引っ張っていた山口さんは「ちょっと力はあったと思いますよ」と振り返る。
学校の特色も話題を呼んでいた。1897年開校の日本最古となる“鉄道学校”の創部26年目での初出場。初戦の近大福山戦には国鉄職員や運転士ら鉄道関係で働くOBが大集結。特別専用列車が仕立てられ、バス10台とともに大応援団が乗り込んだ。4番・投手で出場した山口さんは初回に先制打を放ち、8回途中まで力投。4-2で接戦を制した。
初戦突破で熱気はさらに高まった。
「デゴイチ打線とか言われて面白かったですよ。行きも帰りも貸し切り列車が走って。OBの人が電車を運転してくれたり」
デゴイチ打線、機関車コンビ…鉄道関連の呼称が相次いだ当時を懐かしんだ。
2回戦の金足農戦は失策が相次いだが、6-4で辛勝した。準々決勝の相手は、東の横綱と呼ばれていた取手二。大会ナンバーワン投手の呼び声もあった石田投手との投げ合いとなったが4-3で勝利した。
九回に一打逆転サヨナラのピンチを招いた山口さんは、宝刀パームで代打を空振り三振斬りし、甲子園3試合目で初めて完投。念願のお立ち台でインタビューに登場すると、物おじすることなく「うれしいです。ここに立つのが夢でしたから」とあっけらかんと言ってのけた。
そんな強心臓エースを筆頭に、目立ちたがり屋ぞろいの、のびのびとしたチームは、当時大人気だったテレビ番組になぞらえて、「ひょうきん軍団」の愛称までつけられていた。
山口さんは登板を重ねるごとに調子を上げていった。
「最初は肩が軽くて全然コントロールが良くなかったんですけど、だんだん良くなってきて、投げててカチッと入るようになったんです。大船渡には2安打か3安打しか打たれてないと思います」
準決勝の大船渡戦。好投手の左腕・金野投手に苦戦したが、9回に飛び出した菅沢選手の劇的なサヨナラホームランで勝利を決めた。山口さんは9回2安打1失点と2試合連続完投を飾った。
スタンドからは「鉄道唱歌」の応援マーチが鳴り響いていた。当日の試合を報じたデイリースポーツの1面には「初出場初Vへデゴイチ進撃」の大きな見出しが躍った。
そして迎えた決勝のPL学園戦。山口さんは4日連続となるマウンドに向かった。
現在、母校でコーチを務める山口さんは、投手陣に先発の心得をこう説いている。
「まずは完全試合を目標に掲げろ、次にノーヒットノーラン、完封、最少失点…。そういう気持ちでやった方がいい」
PLとの決戦に挑む際も、そんな心意気だったのかと問うと「いやいや、それはやっぱり」と即座に否定し、当時の心境を思い起こした。
「ちょっとレベルが違うと思ったんで、いい試合をしようという感覚だけでしたね。まさか勝つとは思ってない。周りも全員そう。だから僕も1人1人、1球1球、1アウト、2アウト、3アウトって。そんな感じです。レベルが違いますから」
「レベルの違い」という言葉を繰り返した山口さんだったが、決勝戦は大方の予想を覆す展開となっていった。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇山口重幸(やまぐち・しげゆき)1966年6月24日生まれ。東京都出身。岩倉高校(東京)3年時の84年、センバツにエースとして出場し優勝を果たす。84年のドラフト6位で阪神入り。内野手に転向し10年間在籍。95年からヤクルトで2年間プレーした。通算283試合に出場し41安打、1本塁打、15打点、打率・202。引退後は打撃投手、スコアラーなどを務め23年に退団。24年4月から母校の野球部コーチを務める。





