【野球】PL清原がまさかのバント「楽で良かったですよ」 1安打完封で甲子園初出場にして優勝投手 岩倉→阪神→ヤクルトの山口重幸さん
阪神、ヤクルトでユーティリティープレーヤーとして活躍した山口重幸さん(59)は、母校の岩倉高校(東京)のコーチを務めている。1984年のセンバツ大会、山口さんがエースを務めた岩倉は甲子園に初出場し、快進撃を続けて決勝の舞台に進んだ。相手は清原和博、桑田真澄選手の「KKコンビ」を擁するPL学園。山口さんらは、優勝候補の筆頭と言われ、甲子園で20連勝中の強敵といかに戦い、頂点を極めたのか。
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1984年4月4日に行われたPLとの決戦当日。試合を直前に控えた取材で、山口さんはこんなコメントを残している。
「9点までに(PLを)抑えたらいいと菅沢くんが言ってました。ま、いくら打たれても殺されるわけじゃないから。勝って当たり前のチームと負けて当然がぶつかる。気楽なもんですよ」(同年5日付デイリースポーツ)
プレッシャーを感じさせない大胆不敵さは、そのままマウンドで発揮された。
初回2死から、3番の鈴木選手に中前打され、打席には4番・清原選手。いきなり浮足立ちそうな場面を迎えたが、冷静に主砲を三振に仕留めた。
それ以降もスコアボードに0を並べていった。真っすぐに加え、多彩な変化球を低めに配し、相手の打ち気をかわす投球にPL打線は焦りの色を隠せなかった。
七回。先頭の鈴木選手にストレートの四球を与えると、PLは続く清原選手に送りバントを指示。1死二塁と走者を進められた。
甲子園がどよめいた清原選手のバント。山口さんは「楽でよかったと思いますよ、嫌でしたから」と回想する。その言葉通りに、5番の桑田選手ら後続2人を落ち着いて仕留め、ピンチを切り抜けた。
清原選手との対戦を山口さんは振り返る。
「僕はハナから勝負してないですから。勝負にいくと打たれるという感覚は持ってたんで、いかにかわすピッチングをするかでした。打ちたい、打ちたいという感じがあって、見せ球を投げたら振ってくれていた。1打席目もスライダーか何かのボール球に三振してるんです」
大会で3本塁打を放っている主砲を筆頭に、強打を誇るPL打線。真っ向勝負が通用しないことは分かっていた。
「ずる賢いっていうか、誘い球を多く使って、伏線を張るというのは高校生としては卓越してたんだと思います。負けず嫌いだったんで、いかに打ち取るかってとこに冷静だった。勝たなきゃいけない。勝つためにどうするか。0点で抑えたら勝てるだろうって感覚を持ってたんで」
元々、そういうタイプのピッチャーだったわけではない。
「2年の時は速かったんですよ。140キロちょっとは出ていた。でもこれじゃあ甲子園に行けないなと思って、変化球投手に変わったんです。真っすぐとカーブしか投げてなかったのが、緩いのと速いスライダー、パーム、シュート、シンカーと7球種くらい。パームはちょっと自信ありましたね」
冷静な自己分析で、勝てる投手へと変貌を遂げたからこそ、決勝の舞台にまで立つことができたのだろう。
0-0が続いた投手戦の均衡を破ったのは岩倉だった。七回までに打線は桑田投手の前に13三振を喫していたが、八回二死一、二塁の絶好機を作ると、打席には準決勝でサヨナラアーチを放った菅沢選手。桑田投手のカーブを捉えて右前にはじき返し、二塁から走者を迎え入れた。
貴重な1点を山口さんは守り切った。九回2死から鈴木選手をセンターへの大飛球に打ち取ると両腕を突き上げて喜びを表現した。
実は、優勝シーンは夢に見た光景だった。試合前の取材で山口さんは、もうひとつエピソードを披露していたのだ。
「なんかね、1-0で勝った夢を見たんですよね。誰も信じないと思いながら言ったんですけど。優勝した瞬間はね、ちょっとデジャブっぽかった。気持ち悪いくらい」
正夢となったことを懐かしそうに振り返った。
桑田投手には打者として脱帽したという。3打数無安打1三振。
「やっぱりカーブはすごいなと思いましたね。上から降ってくる感じというのかな。僕が三振をやらなかったら、たしか全員三振の大会記録にはならなかったんですよ。カーブを狙ってて打てなかったですね」
毎回の全員三振を記録し、14三振を喫しても勝負には勝った。
結局、打たれたのは初回の1安打のみ。KKコンビに仕事をさせず、山口さんは決勝戦で1安打完封をやってのけた。
「一世一代のピッチングだと思うんです。神がかりでしたね」
甲子園初出場で優勝投手となった山口さんは、自身の投球をそう表現した。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇山口重幸(やまぐち・しげゆき)1966年6月24日生まれ。東京都出身。岩倉高校(東京)3年時の84年、センバツにエースとして出場し優勝を果たす。84年のドラフト6位で阪神入り。内野手に転向し10年間在籍。95年からヤクルトで2年間プレーした。通算283試合に出場し41安打、1本塁打、15打点、打率・202。引退後は打撃投手、スコアラーなどを務め23年に退団。24年4月から母校の野球部コーチを務める。





