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カー娘支え続けた“創設者”マリリンの力 3度目の五輪で輝いた“太陽の笑顔”

 歓声に笑顔で応える日本(共同)
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 「平昌五輪・カーリング女子・3位決定戦、日本5-3英国」(24日、江陵カーリングセンター)

 カーリング女子日本代表のロコ・ソラーレ(LS)北見を支えてきたのが本橋麻里(31)だ。チーム青森として五輪は06年トリノ大会(7位)、10年バンクーバー大会(8位)に出場。その後、LS北見を創設し、今大会はリザーブとしてサポートし続けた“マリリン”にとっても、特別な思いがあった平昌五輪だった。

 日本カーリングの聖地、北海道北見市常呂(ところ)町で生まれた“太陽”が、日本カーリング界の夜明けを告げた。歓喜の瞬間を、ロコ・ソラーレ北見の創設者で、選手でもある本橋はコーチ席で迎えた。

 「ロコ」は常呂の子、「ソラーレ」はイタリア語で太陽を意味する。バンクーバー五輪後に所属していたチーム青森を離れ、地元の常呂町へと戻った。「5年10年と続けられるクラブチームが世界にはある。そんなチームを作りたい」

 4年に一度しか注目を浴びないカーリングという競技。そして代表制ではないため五輪に出場ができるのは、たった1チームだけ。4年のサイクルが流れるたびに選手たちは離散集合を繰り返してきた。常呂から新たな“道”を作る。そのために常呂へと戻った。

 それは恩師との約束でもあった。1980年代初頭、常呂で酒店を営業していた小栗祐治さん(常呂カーリング協会初代会長)が、町がカナダ・アルバータ州と姉妹提携を結んだことをきっかけに、カーリングを持ち込んだ。町民の間で広まり、専用施設もできた。競技を始める子供たちも増え、五輪代表を輩出してきた。本橋も小栗さんに誘われて、カーリングを始めた一人だった。

 カーリングは98年長野五輪から五輪の正式種目になった。ただ、日本ではまだスポーツとしての地位は低く、あくまでもレジャーだった。12歳の時、本橋は小栗さんに言われた。「オリンピックに出たら、辞めなさい」。当時、カーリング選手を雇ってくれる企業はなく、就職もままならない。五輪代表でさえもアルバイトしながら、競技をしている選手ばかりだった。特に常呂では仕事はなく、地元で育った選手たちもみんな活躍の場を求めて、外へ出て行った。本橋もそうだった。

 「お前が引っ張って、常呂からの道を作ってほしい」-。本橋が小栗さんから頼まれたのは、バンクーバー五輪の直前だった。

 地元に戻ってのチーム作りは、一筋縄ではいかなかった。スポンサーも選手もゼロからのスタート。本橋がゼネラルマネジャー(GM)として奔走。選手に声をかけ、慣れないスーツ姿でスポンサー獲得へ企業を回った。

 やっと出来上がったチームだったが、14年ソチ五輪の選考ではまだ強豪チームに太刀打ちできず、完敗。「粉々にされた」。それでも諦めない。「集まってくるメンバーのキャラクターをつぶさず、1つじゃなく5色で1チームを作りたい」。そんな思いを持ち続けて、ようやく形となったのが、今のチームだった。

 小栗さんは昨年5月、肺がんで亡くなった。88歳だった。「どんどんカーリングの環境が変わってきて、常呂で就職先も手を挙げてくれる企業があったりもするし、それについてはすごく喜んでくれていた。一度北見を出た選手が戻ってきてくれたことにも、喜んでくれていた」と恩師の様子を思い返し、「育成にも熱いものをもっていた。『俺が次の子どもたちを育てるから』って。本当にカーリングが大好きな方だったな」と笑った。天国の師は、この日の選手たちの姿にどんな笑みを浮かべているだろう。

 12年に一般男性と結婚し、出産も経験した本橋。2歳になる長男は、この冬、「カーリングをやりたい!!」と言い始めた。昨年12月下旬、常呂のカーリングホールで初めてストーンを投げた。通常の石の半分の重さ10キロのハーフストーン。セカンドの鈴木夕湖にスイープされ、ストーンはぐんぐん滑っていった。そして、その動画をチームメート全員で見て笑い合った後、みんなが言った。「私がコーチやるよ」-。

 地元に根付き、愛され、世界へ羽ばたく。そして、夢は次の世代へ回っていく。そんな本橋と小栗さんが理想とした町から、日本初のメダルが生まれたのは、きっと必然だった。

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