【野球】「そんな番号つけてるからダメなんよ」岡田監督の一言で背番号変更 4年連続手術で育成契約になった元オリックス近藤一樹さん

 近鉄、オリックス、ヤクルトで19年にわたってプレーした近藤一樹さん(42)は、オリックス時代の2008年に初めて2桁勝利を挙げ、先発投手としての地位を確立した。2年連続で規定投球回をクリアするなど奮闘したが、その後は相次ぐ故障に苦しめられていく。11年オフからは4年連続して右肘を手術し、14年オフには育成選手として球団と契約を結んだ。「125番」を背負っての出直しだった。

 ◇       ◇

 シーズン最終戦で2桁勝利をマークしたプロ7年目、近藤さんは先発としてキャリアハイの成績を残した。25試合に登板し149回を投げて10勝7敗。防御率3・44は規定投球回に到達したパ・リーグ投手で10位の成績だった。

 翌09年、10年も先発ローテの一角を担って登板を重ね、投球イニングは3年連続して140回を超えた。しかし古傷である右肩をかばいながらの投球は徐々に右肘に負担をかけていた。

 24試合に登板し、5勝10敗に終わった10年オフの秋季キャンプ。近藤さんは岡田彰布監督から入団以来つけてきた背番号65から、背番号11への変更を勧められる。阪急、オリックスを通じて佐藤義則投手が22年間背負った偉大な番号への変更は、指揮官の期待の表れだった。

 「岡田さんからは、そんな番号をつけてるからダメなんよ、変えろと言われました。65イコール近藤という気持ちはありましたけど、プロ野球の11番なんてめったにつけられないですから、ありがたい気持ちもありました」

 だが、11番を背負っても事態は好転せず、11年のオフからは4年連続して右肘の手術を受けることになった。

 「手術後にちょっと無理をして中途半端に投げての繰り返しでした。何にもない4年間だったら、心が折れてたと思います」

 12年は1試合、13年は5試合、14年は2試合…。1軍登板数は激減していったが、わずかでも投げられることが救いだった。

 14年のオフに4度目の手術を認められた際には、球団から育成契約となることを告げられた。

 「戦力外も意識しながら1年を過ごしてたので、育成になりますと言われた時には、もう1年あるんだと、ちょっとホッとしたのは覚えています」。その反面、ショックもあった。「育成の立場になってボンと落ちる感覚がありました。心が折れるというか」と率直な思いを吐露した。

 65番から11番に昇格していた背番号は成績とともに変遷。12年度のドラフト1位・松葉貴大投手に11番を譲り、50番をつけていた近藤さんは、育成契約に伴い初めて3桁の125番を背負うことになった。

 ただ、そのまま下を向くことはなかった。現実を受け入れて近藤さんはあえて3桁の背番号をアピールする道を選んだ。

 「65番とか11番とかをつけたりしてたので、125番のユニホームを着たくない気持ちも半分あったんですけど、125番が今の俺だと思ったんです。着るべきだと思って、あえて着るようにしました。地道にタイミングが来るまで粘っていこうと」

 翌15年の開幕直後、支配下登録を勝ち取った近藤さんは、愛着ある65番を背負って再出発した。

 「65に戻してほしいと志願したんです。重い番号ですけど、ドラフト1位とかじゃない自分がプロ野球選手として下からはいあがってきたというか。周りからも、やっぱりおまえは65だな、しっくりくるなって言われましたね」

 相棒を背負って復活ロードを歩み始めた近藤さんは7月12日の楽天戦で1411日ぶりの勝利をつかんだ。

(デイリースポーツ・若林みどり)

 近藤一樹(こんどう・かずき)1983年7月8日生まれ。神奈川県出身。日大三高3年時の夏の甲子園で優勝。2001年度のドラフト7位で近鉄入団。分配ドラフトで05年からオリックスでプレーし、育成契約を経て、16年途中にトレードでヤクルト移籍。18年に最優秀中継ぎ投手のタイトル獲得。20年オフの退団後、四国IL香川でコーチ兼投手として2年間プレーして引退。NPB19年間で347試合に登板、43勝57敗4セーブ、83HP、防御率4・50。現在は野球解説者、立正大立正高野球部など複数校で指導者としても活動中。

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