【野球】「もうこれ以上は限界」2軍監督に申し出たことも 戦力外覚悟からの復活で1280日ぶりにオリックスで勝利 近藤一樹さん
勝つことの難しさを身をもって知った。先発、中継ぎとしてプロ3球団で19年にわたってプレーした近藤一樹さん。日大三高からドラフト7位で入団した近鉄では合併前最後の年に、記念すべきプロ初勝利を手にしたが、次の1勝は遠かった。分配ドラフトで所属したオリックスでは肩の故障に見舞われ、自ら「限界」を首脳陣に伝えたことも。戦力外も覚悟したが、リハビリ組から復活を果たし、1280日ぶりにプロ2勝目をつかんだ。
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近鉄ラストイヤーとなった2004年9月にプロ3年目にして初勝利をマークした近藤さんだったが、05年から所属した合併球団で1軍マウンドは遠かった。
「結果を残せない選手に戻るんです。1勝から次の1勝までは長かったですね」
移籍元年の05年は2軍が主戦場。フレッシュオールスター戦に選ばれるなど2軍では登板を重ねたが、1軍出場は7試合にとどまった。
翌06年は事態が悪化する。右肩痛を発症。我慢しながらの投球を続けていたが、大石大二郎2軍監督に自ら投球を止めることを願い出た。
「ボロボロ状態で2軍戦に投げてたんですが、もうこれ以上は限界だなと感じて、大石さんに“肩が痛いんでもう投げなくていいですか”と言いに行きました。監督からしたら、選手はたくさんいますから、分かったという感じでしたね」
チームから離れリハビリ組に加わった。1軍登板なしに秋を迎え、引退を覚悟したという。
「自分の立場もわかってましたけど、痛いし、今シーズンでダメならダメでいいやと思ってました。痛いのが治らなければ結果も残せないし、もうダメだったらいいですと球団には言ったんですが、戦力外のメンバーに入ってなかったんです。ギリギリだったのかしれませんが、残してくれたんです」
5年で終わっていたかもしれないプロ野球人生は首の皮一枚つながった。球団の助言もあり、近藤さんはリハビリやケガのケア、トレーニング方法などを専門施設に通うなどして学び始めた。
「ガリガリだったんですけど、体重も5キロ増えてプロ野球選手っぽい体つきになり、球速も安定してきました」
肩の痛みそのものが消えることはなかったが、上手く付き合う術を身につけた。07年は2軍のローテーションに入り104イニング超を投げ、1軍でも2試合に先発することができた。
翌08年には開幕カードの西武3連戦(西武ドーム)の3試合目、3月23日の先発に抜てきされた。
結果はテンポ良い投球で6回を84球、4安打1失点。近鉄時代以来4年ぶり、1280日ぶりの勝利をマークした。
04年のプロ初勝利はシーズン終盤につかんだものだったが、1勝1敗で迎えた開幕カードを勝ち越しに導く勝利は、ひときわ価値あるものだった。
「今回は、これからという時。全然違いますね。やっと(オリックスの)一員になれました」
当時のデイリースポーツには長いブランクを経ての勝利をかみしめる近藤さんのコメントが残されている。
そのころの自分について振り返る。
「チャンスをもらってもつかみきれずにいました。球団に契約を更新してもらったこともターニングポイントでした。次の年があるってことで、気持ちを切り替えることができた。復帰して1年間、2軍のローテで投げてリズムを作れたことが2008年にいかせたんです」
その年、近藤さんは1軍ローテの一角を担い、腕を振り続け、勝ち星を重ねていった。そして、2ケタ勝利をかけた大一番は、自分以外のことで大きなプレッシャーを感じる展開で巡ってきた。
(デイリースポーツ・若林みどり)
近藤一樹(こんどう・かずき)1983年7月8日生まれ。神奈川県出身。日大三高3年時の夏の甲子園で優勝。2001年度のドラフト7位で近鉄入団。分配ドラフトで05年からオリックスでプレーし、育成契約を経て、16年途中にトレードでヤクルト移籍。18年に最優秀中継ぎ投手のタイトル獲得。20年オフの退団後、四国IL香川でコーチ兼投手として2年間プレーして引退。NPB19年間で347試合に登板、43勝57敗4セーブ、83HP、防御率4・50。現在は野球解説者、立正大立正高野球部など複数校で指導者としても活動中。





