【野球】大先輩が引退した翌年は「“亡霊”との闘い」だった 後任としてマスク被った元広島・西山秀二さん
南海(現ソフトバンク)、広島、巨人で20年の現役生活を送った西山秀二さん(58)は、1993年シーズンから正捕手としてマスクを被り始めた。長年カープの正捕手を務めてきた達川光男捕手が92年シーズンをもって37歳で引退。西山さんは翌シーズンの開幕戦からスタメンマスクを被ったが、周囲から認められるまでには時間を要した。93年は大先輩の「“亡霊”との闘い」だったという。
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カープが5年ぶりの優勝を果たした91年シーズンに内外野で起用され、結果を残した西山さんだったが、球団方針によって92年からは本業である捕手に復帰した。
開幕戦でいきなり出番は訪れた。4月5日の巨人戦。スタメン出場していた達川捕手が、二回途中に本塁に突入してきた駒田徳広選手と激しく衝突し負傷退場。西山さんは代役として出場し、先発の川口和久投手とコンビを組んだ。幸い達川捕手は長期離脱することはなかったが、2番手捕手の重要性がクローズアップされた一戦となった。
「急きょキャッチャーで出ることになって、そこからはずっとキャッチャーをやりましたね。で、秋口には達川さんが急に辞めるということになって」
アクシデントに見舞われた開幕戦に始まり、先輩捕手の突然の引退で幕を下ろすことになったシーズンを振り返った。
その年は5月から西山さんのスタメン起用も増え、併用される形でシーズンは進んでいった。
10月4日、本拠地最終戦の巨人戦で達川捕手は引退を表明した。
「自分がいれば、若手に頼られる。いつかバトンタッチしなくてはならないのなら、今がちょうどいい」。球団にこう申し入れたという。
“引退試合”となった巨人戦にスタメン出場していた西山さんは、地元ファンに別れを告げるべく、代打として七回に登場した達川さんと交代してベンチに下がった。
「達川さんに辞めるっていう雰囲気はなかったし、自分も特別に活躍したわけじゃなかったから驚いた。次の年からは、もう責任重大というかね」
先輩捕手の決断に衝撃を受けたことを明かす。
翌93年、西山さんは初めて開幕戦でマスクを被り、ヤクルトに快勝した。チームは開幕6連勝と好調に滑り出し、5月には首位に躍り出た。だが、投手陣は安定しなかった。不振が響き、8月31日からは26年ぶりとなる12連敗を喫するなど低迷。チームは19年ぶりの最下位に沈んだ。2ケタ勝利した投手は不在で、川口投手の8勝が最多だった。
投手陣の不振の矛先は西山さんに向けられた。
「93年は達川さんの“亡霊”と闘わなアカンかった。悪い結果が出ると“達川ならあんなリードしないのに”と言われ続けましたね。ピッチャーがど真ん中に抜けたボールを投げてホームランを打たれても“達川ならこうなのに”って。常に悪い結果に対して、達川さんを神格化して比べられた。苦しかったですね。達川さんだって打たれたことはなんぼでもあるわけですからね」
“外野”から聞こえてくるさまざまな批判の声は、一時代を築いた偉大な先輩捕手の存在を強烈に意識させるものだった。
自身は開幕から110試合に出場し、自己最多の7本塁打を放つなど、打てる捕手の本領を発揮し「それなりにやれるかなっていう手応え的なものはあった」と話すが、後継者として認められるには至らなかった。
9月半ばに成績不振の責任を取って山本浩二監督は辞任、2軍監督の三村敏之氏が94年シーズンから指揮を執ることが決まった。
西山さんは新監督から厳しい言葉を突きつけられた。
「“俺はドラフト1位の瀬戸を使う。おまえを使う気はない”、そうはっきり言われましたね。くそ~って思いましたよ。キャンプから競争させられて、オープン戦も交互に使われましたね」
90年度のドラ1で1学年下の瀬戸輝信選手を起用する方針を告げられた西山さんは発奮。オープン戦で打率・481と打ちまくった。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇西山秀二(にしやま・しゅうじ)1967年7月7日生まれ。大阪府出身。上宮高から1985年のドラフト4位で南海に入団。87年のシーズン途中で広島にトレード移籍。93年に正捕手となり94、96年にはベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。広島の捕手として初めて規定打席に到達して打率3割をマーク。2005年に巨人に移籍し、その年に引退。プロ在籍20年で通算1216試合、打率・242、50本塁打、36盗塁。巨人、中日でバッテリーコーチを務めた。





