【野球】「やんちゃでもいいから」広島幹部がかけてくれた言葉 「いよいよこれで1軍…」意気込む西山秀二さんを打ち砕いたヘッドコーチの一言
南海(現ソフトバンク)、広島、巨人で20年にわたって捕手としてプレーした西山秀二さんは、入団2年目の1987年5月にトレードで広島に移籍した。南海時代の恩師だった柴田猛2軍監督に「栄転や」と送り出され、喜び勇んで広島の一員となった。移籍2年目のオフに参加したキューバ遠征では、山本浩二新監督の前で捕手として猛アピールすることに成功する。しかし新たな所属先で戦力として認めてもらうまでの道のりは遠かった。
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当時人気の面でセ・リーグに大きく水をあけられていたパ・リーグ球団からの移籍。西山さんの心は躍っていた。
「広島は衣笠祥雄さんとか高橋慶彦さんとかって有名やったじゃないですか。テレビで見た人たちと会える、すごいって思いましたね。実際には2軍やから接点はないんですけどね」
広島市民球場に連れられて行った際に、初対面の松田元オーナー代行(現オーナー)からは、こんな言葉をかけられた。
「松田オーナー代行に最初に会ったときに、“おまえ、やんちゃらしいな”って言われて、そんなことないですけどって返したら、“まあいい。うちは別に少々やんちゃでもいいから、とにかく野球を頑張れ”って。それが第一声だった。この偉いさんすごいな、セ・リーグすごいなって思いましたね」
南海時代のやんちゃぶりをとがめるのではなく、おおらかに受け止めてくれたオーナー代行に西山さんは驚いた。
肘痛の影響で移籍前はショートを守っていたが、広島では「ショートは高(信二、現広島2軍監督)がいるから、ショートでは使わないと言われた」。2軍で三塁守備に就いていたが、夏が終わるころチーム事情からキャッチャーをやるよう求められた。
西山さんは上宮高の大先輩で阪神のヘッドコーチだった一枝修平さんに相談した。
「一枝さんは、内野手はいつでもできるけど、キャッチャーはなかなかできるもんじゃない。チームが戻れって言うんやったら戻る方が価値があるんじゃないか、と。それで戻ったんです」
移籍1年目、2年目の1軍出場はなかったが、2年目のオフ、88年11月上旬のキューバ遠征で「捕手・西山」はその存在を猛アピールした。
阿南準郎監督に代わって就任した山本浩二監督の初采配の場となったのがキューバとの親善試合だった。高橋慶、小早川毅彦、紀藤真琴選手ら日本からの主力組と、米フロリダでの教育リーグに参加していた西山さんら若手組が合流して現地でキューバ選抜と対戦。だが、アマ球界最強と言われていた相手にチームは黒星を重ねた。
「1軍選手が来てたからキャッチャーも植田(幸弘)さんが使われてた。試合は大負けして盗塁もされまくってたんやけど、浩二さんは若手のことは知らんし。2軍のコーチとかが言ってくれて途中から試合に使ってもらって、盗塁を2つぐらい刺したんです」
試合には敗れたものの活躍が認められた西山さんは、第3戦以降スタメンで起用された。そして白武佳久投手と組んだ最終の第5戦、6-3でチームは初白星をもぎとった。
「私と緒方が大活躍して勝利に貢献したんです」
プロ2年目の緒方考市選手は2安打2打点4盗塁の大暴れ、3年目の西山さんは白武投手を完投に導いた。若い力での勝利だった。
キューバ遠征で団長を務めていた松田耕平オーナーは最後に一矢報いたことを大喜びしてねぎらってくれたという。
「先代のオーナーがわざわざ自分のところに来てくれて。大負けして盗塁されまくって悔しかったのを、おまえが出て盗塁をポンポンとアウトにしてくれて、これほどうれしいことはなかったって言ってもらった」と懐かしんだ。
フロリダでの教育リーグからキューバでの親善試合という長い海外遠征を終えて、帰国した西山さんらはそのまま秋季キャンプ地の宮崎・日南入りした。オーナーも絶賛する活躍で「いよいよこれで1軍や」と確信。意気揚々とキャンプに加わったが、思惑通りにはいかなかった。
「大下さんから、誰やコイツ、こんなんいらん。2軍に行かせろって言われて。相手にされんかったんです」
大下剛史ヘッドコーチに冷たく突き放されたという。翌89年も2軍スタート。その年の8月に1軍初出場は果たしたが、2試合2打席でシーズンは終わった。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇西山秀二(にしやま・しゅうじ)1967年7月7日生まれ。大阪府出身。上宮高から1985年のドラフト4位で南海に入団。87年のシーズン途中で広島にトレード移籍。93年に正捕手となり94、96年にはベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。広島の捕手として初めて規定打席に到達して打率3割をマーク。2005年に巨人に移籍し、その年に引退。プロ在籍20年で通算1216試合、打率・242、50本塁打、36盗塁。巨人、中日でバッテリーコーチを務めた。





