【野球】広島から巨人への移籍でつながった長嶋茂雄氏との縁 「監督と選手」時代を経て「専属広報」として寄り添った小俣進さん
6月に亡くなった長嶋茂雄さんの専属広報を長く務めた小俣進(74)さんは、現役時代に広島、巨人、ロッテなどで活躍した剛球左腕だった。長嶋氏の監督1期目にトレードで巨人入りし、77年の優勝に貢献。ロッテ時代にはプロ初完投初完封勝利を飾っている。13年間の現役後は打撃投手としてチームを支えていたが、縁あって専属広報となり長嶋さんを支えた。人に恵まれ、導かれてきた人生を「運があった」と感謝する小俣さん。その野球人生をたどる。
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衝撃的なニュースが列島に流れた6月。長嶋さんが眠る田園調布の自宅前に小俣さんの姿はあった。閑静な住宅街に集まった報道陣への対応、弔問客が訪れた際の段取り…。気配りの人は、専属広報として長年培い、体に染みついた仕事を遂行していた。
心の整理は今もついていない。現実を受け止められてもいない。それでも、小俣さんは長嶋さんに感謝しつつ日々を過ごしている。
「まだ亡くなったっていう実感はない。だけど、長嶋さんに巡り合ったから、元気をもらってるし、今こうしていられるのも長嶋さんのおかげなんだから。本当に、それは間違いないから」とほほ笑む。
38年前の1992年12月。長嶋さんの13年ぶりの監督復帰決定という熱気に包まれた田園調布の自宅を新米広報として訪れた。
「その時は広報がどんな仕事をするのかも分かってなかった。だけど、家の近くの公園には記者が大勢いるし、交通整理をしないといけなかった。警察が出たりもしてたからね」
巨人の打撃投手として翌年の契約を済ませた後に、突然命じられた長嶋監督の専属広報という大役。右往左往しながら慣れない仕事をしたころに思いを巡らせた。
スーパースターだった長嶋さんにあこがれて野球を始めた。「みんなが3番をつけたかった時代だった」と振り返る。
元々は長嶋さんと同じ右投げ右打ち。だが小学6年時、チームの監督から左投げ左打ちへの転向を勧められたことが転機となった。
「体が大きいから、左にしたらレギュラーが取れるぞ、ユニホームを着られるからやれって。監督さんはずっと個別で練習に付き合ってくれた。生活全般もすべて左でやるように言ってくれてね。監督さんに感謝だよ」
補欠の捕手だった少年は、中学では一塁手として試合に出場できるように成長。神奈川・藤沢商(現藤沢翔陵)の2年秋からは投手になった。スタートは決して早くなかったが、威力ある速球を投じる左腕はプロの目に留まる。大昭和製紙からドラフト5位で広島に入団。その後、トレードで長嶋巨人の一員となり、優勝に貢献するなど活躍し、4球団で13年の現役生活を送る。
「プロにあこがれはあったけど、まさか自分が行けるとは思ってなかった。左ピッチャーが本当に珍しい時代に左で投げてるっていうのがあったから。運があるよね」
左投げ転向によってプロへの道が開かれ、長嶋監督のもとでプレーしたことが、のちに専属広報として濃厚な時間を過ごすことにつながった。
最近になって、長嶋さんの専属運転手だった男性と少しずつ始めているのは、かつて遠征中やプライベートで長嶋さんと訪れた神社や仏閣を再訪すること。逝去を報告し、お札などを返納している。
「まだ遠い所には行けてないけど、高野山や善光寺にも行こうと話はしてる。長嶋さんは遠征中にも必ず散歩に行って地元の氏神さまとかを大事にされていた。必勝祈願ではなくて、感謝の気持ちで訪ねていたから」
そうすることが長嶋さんへの供養であり、自身の心の整理をつけていく作業にもなるのだろう。
「運がよかった」「ツキがあった」。取材中、小俣さんは何度もこの言葉を繰り返したが、人に恵まれ導かれたのは、朗らかで明るいその人柄と努力があってこそだったのではないか。長嶋さんに寄り添った小俣さんの野球人生を追っていく。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇小俣進(おまた・すすむ)1951年8月18日生まれ。神奈川県出身。藤沢商(現藤沢翔陵)から日本コロムビア、大昭和製紙富士を経て72年度のドラフト5位で広島に入団。巨人で貴重な左の中継ぎとして活躍した。ロッテ時代に初完投初完封勝利をマーク。現役最終年は日本ハムに在籍。プロ通算13年で174試合に登板16勝18敗2セーブ、防御率4・73。引退後はロッテ、巨人の打撃投手を経て、長嶋茂雄監督の専属広報、終身名誉監督付き総務部主任などを務めた。





