【野球】「勘弁してください」「これ以上はもう」上宮から大学進学ではなくプロ入りを選んだ理由 元広島の正捕手・西山秀二さん
野球評論家として活躍する元捕手の西山秀二さん(58)は南海(現ソフトバンク)、広島、巨人の3球団で20年にわたって現役生活を送った。大阪・上宮高から1985年度のドラフトで南海から4位指名されてのプロ入りだった。高校野球を終えて野球を続けていくにあたり、西山さんには、どうしても譲れないことがあった。当時の監督にきっぱりと伝えたこだわりとは何だったのか。
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夏の地方大会5回戦で東海大仰星に敗れて、西山さんの高校野球は終わった。
卒業後、どの道に進んで野球を続けていくのか、決断する時期が訪れていた。
野球部の山上烈監督からは大学に進学する道を提示された。だが、西山さんは「それは、勘弁してください」と即座に断ったという。
理由ははっきりしていた。
「もうこれ以上、殴られるのはイヤやった。これ以上、先輩後輩で金ももらわんとしばかれるのはイヤです、と。金くれるんやったら、我慢もするけど」
ストレートに当時の思いを吐き出した。
「昔はね、われわれの時代ってそれが当たり前やったやないですか。だからそれはしょうがないとして、18歳ぐらいまでは耐えてたけど。ただ、これ以上は、もうイヤやった。大学に行ったとしても、先輩とケンカして辞めます。たぶん、これ以上殴られたらケンカになるやろし。だから大学は選択肢になかった」
現在では決して許されない理不尽な上下関係がはびこっていた時代。そこに耐えて高校まで過ごしてきたが、卒業して大学野球に行ってまで不条理であろう世界に身を置くつもりはなかった。
野球をしてお金を稼ぎたい-。プロ野球か、社会人野球入りかを監督から問われた西山さんは迷わず返答した。
「できれば、行けるならプロ野球でお願いしますって言ったら、プロ野球から話が来てるって。じゃあ、お願いします。どこでもいいです、と」
そう希望を伝えた。
プロ野球のスカウトが調査に訪れているのは知っていたが、特定の球団への思い入れがあったわけではなかった。
ドラフトで指名されなかった場合の受け皿もあった。高校の大先輩である一枝修平氏が当時、阪神のコーチを務めていた関係もあり、ドラフト外で阪神入りする話も水面下では動いていた。
迎えた85年11月20日のドラフト会議。学校で待機していた西山さんは、近鉄からの4位指名を伝えられ「エーッ近鉄?」と声を上げてしまった。
そんな反応となった理由を尋ねると「2つ上の先輩の光山(英和=捕手)さんが近鉄やったんですよ。1つ上の岡田耕司さん(外野手)も近鉄にいた。高校の先輩が2人もおって、まして同じポジションの人がおるとこに行きたくないやないですか。なんで、先輩と競争せなあかんねんっていうのがあるし、行ったら間違いなくパシリになるでしょ」
冗談めかして振り返った。
その後、近鉄に続き、南海も西山さんを4位で指名。当時は1位以外でも指名が重複した場合は抽選が行われる方式で、今のようなテレビ中継はなく、現場からの連絡だけが頼りだった。
「これから抽選やと聞いて“もうお願いしますわ”って言ってたら、南海に決まったというから、ああ良かったって」
南海の交渉権獲得に胸をなで下ろした。
大阪・なんばに本拠地大阪球場を置き、若手の鍛錬の場である中百舌鳥球場は堺市にあった。
なじみのある地元の球団への入団は喜ばしいことだったが、若かった西山さんには、地元であることが逆に働いてしまった。
「それが、いけんかったかもしれん…。なんぼでも遊ぶ環境があったから」
そう口ごもるのだった。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇西山秀二(にしやま・しゅうじ)1967年7月7日生まれ。大阪府出身。上宮高から1985年のドラフト4位で南海に入団。87年のシーズン途中で広島にトレード移籍。93年に正捕手となり94、96年にはベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。広島の捕手として初めて規定打席に到達して打率3割をマーク。2005年に巨人に移籍し、その年に引退。プロ在籍20年で通算1216試合、打率・242、50本塁打、36盗塁。巨人、中日でバッテリーコーチを務めた。





