【野球】かなわなかったPL入学→猛勉強での上宮合格 元広島の正捕手、西山秀二さんが親に直談判していたプロレスラーへの夢

 1990年代の広島で正捕手を務めた西山秀二(58)さんは、2度のベストナイン、ゴールデングラブ賞に輝くなど3球団で20年の現役生活を送った。大阪・八尾の大正中時代には桑田真澄投手(現巨人2軍監督)とバッテリーを組み大会を制覇してきたが、高校は別々の道を歩むことに。あこがれていたPL学園への入学が頓挫した西山さんは、猛勉強の末、大阪の名門校・上宮の合格を勝ち取る。しかし、高校進学とは別に親に直談判していた夢があった。

  ◇  ◇

 桑田-西山の強力バッテリーは大正中学で解消となった。

 高校球児のあこがれである「甲子園への近道」としてPL学園への進学を希望していた西山さんだったが、大人の事情で違う道を選ぶことを余儀なくされたという。

 「中学3年の夏に野球が終わって、そこからセレクションに行ったりしてたんだけど、ゴタゴタがあって。11月くらいに行けないことになって」

 遠い昔の記憶を思い起こしつつ言葉を濁した。

 そこから志望校に切り替えたのは、一枝修平氏らプロ野球選手を輩出している大阪の強豪私学、上宮だった。

 「1歳上のいとこも上宮で野球やってたし、地元(八尾市)から行ってる人も結構いて。そのころから野球が強くて有名やった。塾に行ったり、家庭教師つけたり。2、3カ月慌てて勉強して、受験したんです」

 野球漬けの日々から一転して受験生となった西山さんは、元々成績優秀だったこともあり見事に合格を勝ち取った。

 「元木(大介=巨人)の時代と違って、俺らの時代は、ほんとに受験して成績を取らないと入れなかった。偏差値が高かったんですよ。元木は勉強せんでも入れたけどね。あいつは特待生。あいつらの時代から特待生の制度ができたけど、僕らの時は受験でしか入れんかったんですよ」

 高校の後輩であり、巨人でもチームメートとなった元木氏をイジりつつ、得意顔を見せた。

 実はPLへの道が断たれた段階で、父親に直談判した夢があった。

 「あのころ、俺はほんとにプロレスラーになりたかったんですよ。大阪府立体育館によく見に行ったりしてた。新日が好きで、長州力さんが好きやった。アントニオ猪木さんも好きやったな」

 熱心な新日本プロレスファンだった少年は、高校に行かずにプロレスラーになりたいと父に告げたが、背中を押してはもらえなかった。

 「親が高校だけは出ろって。上宮に落ちたら、もう近所の学校行って、野球せんでもええし、好きにすればいいけど、高校だけは出ろということやった」

 当時を回想しながら、西山さんは別の人生を夢想する。

 「上宮に落ちてたら、多分、近所の公立校に行って。そこは野球部がなかったんやけど、ラグビーが有名やったし、ひょっとしたらラグビーをやって、ゆくゆくはプロレスラーになってたと思う」

 どのようなプロレスラーになっていたのだろうか。

 「体がちっちゃかったから。プロレスラーになるには身長が180はないと。170ナンボしかないから、ジュニアヘビー級しか無理やな。覆面レスラー、マスクマンになってたんじゃないか。空中殺法をやってね」

 マスクマン西山を思い描いた。

 プロレスラーになるという夢はかなわなかったが、親の説得を受け入れ、受験勉強にいそしみ、上宮に合格したことでプロ野球選手への道は開けていった。

(デイリースポーツ・若林みどり)

 ◇西山秀二(にしやま・しゅうじ)1967年7月7日生まれ。大阪府出身。上宮高から1985年のドラフト4位で南海に入団。87年のシーズン途中で広島にトレード移籍。93年に正捕手となり94、96年にはベストナイン、ゴールデングラブ賞を受賞。広島の捕手として初めて規定打席に到達して打率3割をマーク。2005年に巨人に移籍し、その年に引退。プロ在籍20年で通算1216試合、打率・242、50本塁打、36盗塁。巨人、中日でバッテリーコーチを務めた。

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