【野球】1型糖尿病の阪神・岩田 闘病者の思い背負って投げ続ける~覚悟と決意を持って~

 2軍キャンプ初日、高橋建コーチ(奥)が見守る中、ブルペンで力投する岩田
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 目の前の子供たちのためだけではない。何より、自分のためかもしれない。昨年12月、大阪・高槻市。阪神・岩田稔投手は、大阪医科大学内で開催された「クリスマス会」に参加していた。

 クイズ大会やサイン会。子供たちの笑顔がはじける。一緒に笑う岩田だったが、胸の中ではある思いをめぐらせていた。

 「俺がしっかり頑張らないと、子供たちの目標がなくなるんじゃないか…。みんなの夢を壊してしまうんじゃないか。そんなことばかり考えていた」

 それは、自分と同じ1型糖尿病と闘う子どもたちとの交流だった。感謝の言葉に手を振って応え、会場を後にする。病気の自分でもやれる。人生をかけて、そう示し続けなければならない。交流会は、自分を奮い立たせるための「オフの恒例行事」だった。

 2月1日、2軍キャンプ地である高知県安芸市。プロ15年目のシーズンを迎える岩田は、昨年夏の甲子園を沸かせた高校生ルーキーらにまじって、開幕を見据え鍛錬の日々をスタートさせた。キャンプ初日には、ブルペンで101球を投げた。それは、2020年の意気込みを示す熱のこもった投球だった。

 昨季は14試合の登板で3勝4敗、防御率4・52。37歳になる年齢を考えても1年、1年が進退を懸けた勝負になる。ただ、使命を持つプロ野球選手として、ここで立ち止まる訳にはいかない。

 一昨年は6試合の登板で0勝4敗。昨季も開幕は2軍で迎えた。ふとした瞬間、病床で待つ子供たちの姿が浮かぶ。1型糖尿病を患う岩田は2008年から支援を始め、これまで多くの患者を甲子園に招待した。1勝につき10万円を寄付。喜ぶ少年少女の姿に闘う理由をみつけてきた。

 発症したのは高校2年生の冬だ。岩田はこの時に味わった悔しさ、見返すんだという反骨心が、プロの扉を開いたと述懐する。

 ただ、西谷浩一の決断、行動なくして、土壌を築くことはできなかった。1998年の11月、大阪桐蔭の監督に就任。翌4月に入学してきたのが、後にエースとなる岩田だった。2年秋の府大会で頭角を現し、準優勝。近畿大会でもベスト8に進出し、センバツの選考を心待ちにしていたころだ。

 1月、新年最初の練習締めに3000メートル走があった。だが、背番号1を付ける左腕が2、3周と、トップから遅れる。練習を止めた指揮官は、容赦なく怒声を浴びせた。

 「エースがこんな気持ちじゃ、練習をやる意味がないやろ!」

 いきおいのまま飛び出した西谷のもとに、すぐ謝罪に来た岩田は切り出した。

 「言い訳になるんですけど…。風邪をひいたみたいで。病院に行かせてもらえませんか」

 その言葉がさらに怒りを増幅させた。

 「初日から風邪をひくのもおかしいんじゃ!」

 そんな会話をした後、学校近くの病院に向かわせた。

 数時間後。西谷の携帯電話が鳴った。病院からだ。

 「血糖値の数値が異常です」

 医師の言葉を理解するには時間が掛かった。1型糖尿病との診断だった。糖尿病は大きく1型と2型に分かれるが、一般的に食べ過ぎ、運動不足などが要因とされる2型のイメージが強い。

 「なぜ?」

 疑問を抱きながら岩田の両親に連絡し、西谷もすぐ病院に向かった。

 「知識としてはあったんですけど、でも、まさか自分の生徒がって。この間まで普通にやっていていましたから。チームのこともそうですけど、どうしてやるのがいいんだと。分からなかったです」

 まだ、30歳を過ぎたばかりの青年監督。経験のなさは、寄り添い、共に歩むことで埋めていくと決めた。

 「頑張っているやつに、頑張れと言えないでしょ。それしか方法がなかったんですよ」

 西谷は自虐的に笑うが、その日から毎日、病院通いを日課にした。放課後の練習終わりに、ユニホーム姿のまま。面会時間は過ぎていたが「看護師さんにケーキを差し入れて」許しを得た。たわいない会話に合わせ、毎日1つ、差し入れを持った。硬式球や握力強化の器具、参考書…。

 「本人は最後に、20キロのダンベルを持ってきたって言うんです。絶対、作り話ですよね、あいつ」

 今では笑って話せるが、面会後は担当医を質問攻めにし、糖尿病の講習会にも参加した。毎日が必死だった。

 一方、入院中の岩田は決して落ち込んだ様子を見せなかった。見舞いに訪れた両親も意外なほど、表情はいつもと変わらなかった。入院当初は病室で1人になると「これからどうなるんやろうとか、ボーッと考えていた」という。

 もちろん不安はあったが、心は徐々に前向きになっていった。元巨人のガリクソンが1型糖尿病を抱えながら、メジャーでも活躍していたことが励みになっていた。自分で腹部にインスリン注射を打つことも、すぐに慣れた。注射といってもペン型のもので、子供でも扱えるように作られている。痛みもほとんど感じない。岩田は「これさえ打てば大丈夫や」と自身に言い聞かせた。

 インスリンとは人間の体の中で唯一、血糖値を下げるホルモン。それを分泌するすい臓の細胞がウイルスなどによって機能を破壊され、分泌されにくくなってしまうのが1型糖尿病だ。そのため患者は注射でインスリンを体内に補充する必要がある。岩田は1日4回の注射を打っている。

 注射の前には必ず血糖値を確認する。「穿刺器(せんしき)」と呼ばれる器具で指先から血を出し、血糖測定器にかける。血糖値の高低によってインスリンの量も変わる。岩田はこの作業を17歳から続けてきている。

 徐々に状態も安定。退院後は実家ではなく、大阪桐蔭の野球部寮へ戻った。寮側も万全の受け入れ態勢を敷いた。まずは食事。西谷が糖尿病講習会などで得た知識をもとに、特別メニューが用意された。インスリン注射を欠かさなければ、大好きな野球を続けることにも支障はない。

 プロに入って14年。1型糖尿病のプロアスリートとしても、活躍は広く知られるようになった。今でこそ、「1型」と「2型」の違いは認知されつつある。だが、岩田が発症した20年近く前はそうではなかった。病気を理由に、内定していた企業から断りの連絡が入った。

 西谷は昨日の事のように振り返る。

 「僕、どうしたらいいんですかって。普段、感情を表に出さないヤツが、顔を真っ赤にして怒っていました」

 両親も大きなショックを受けた。今後、降りかかるであろう困難にはある程度の覚悟はできていた。とはいえ、あまりに早く訪れた衝撃的すぎる現実には、さすがに戸惑った。「悔しい」。そう言って、これほどまでに息子が落ち込む姿を見せたのも、初めてだった。それを見ているだけでもつらかった。

 だが、これからもさまざまな困難は起こりうる。そのたびに打ちひしがれ、立ち止まってしまっては、夢はかなわない。夢を追いかけることすらできなくなる。父・広美さんは心を鬼にして言った。

 「オレがそこの会社の社長だったとしても、病気の人間は雇わん。今はおまえがそういう病気の状態なんや。しょうがないやろ。恨むな。見返してやったらええやないか」

 父もつらかった。涙をこらえ、説き伏せた。父の言葉は岩田の心に響いた。1型糖尿病をハンディではなくバネとし、全てを良い方向へと回転させてきた「一病息災」の精神は、ここに原点がある。

 ただ当時、原因不明の腰痛も発症した。セレクションで投げることができず、進路は八方ふさがりの状態。野球を続けるのは難しい…そんな状態だった。

 「考えよう」

 岩田を勇気付けながらも悩む西谷は、母校でもある関大を候補にした。

 「関東なら他にもいくつかありました。ただ、食事面を考えたら、家から通える方がいい。それに母校なので私が説明できます」

 だが時期が遅く、スポーツ推薦の枠は埋まっていた。それならばと、学校長に頭を下げた。

 「将来をつないでやりたい」

 指定校推薦での進学を頼み込んだ。

 「岩田なら、やるんじゃないか」

 学内の先生たちの声も後押しする。猛勉強もあって合格を勝ち取った。

 関大進学後は順調に才能を開花させていった。2005年3月。4年生に上がる直前だった。春季リーグ戦開幕前のオープン戦が組まれていた。他リーグの大学や社会人チームとの練習試合である。岩田の登板日は唐突に告げられた。監督の高岡淳からさりげなく「○○戦で先発や」と言われた。瞬間、岩田の心は燃え上がった。その相手とは、高校時代に事実上の内定を取り消された社会人チームだった。

 試合では、相手打線に全くつけ入るスキを与えなかった。結果は6回を投げて3安打無失点。打線も4点を奪い、4-0でリードしたまま降板した。リリーフが打たれて4-3まで追い上げられながらも逃げ切り、岩田は勝利投手となった。自宅へ戻ると両親にすぐさま報告した。

 「0点に抑えたったわ!!」

 つい先ほどまで球場で試合を見ていた父・広美さん、母・律子さんだったが、そのことは息子に明かさなかった。初めて知ったように驚き、喜んだ。父が言った。

 「ようやった!相手もおまえを獲らんかったことを“しもた”と思ったんちゃうか」

 そんな活躍はプロスカウトの目にも留まり、2005年度ドラフトの希望枠で阪神に入団した。1、2年目は伸び悩んだが、気合を込めて臨んだ3年目。オープン戦から結果を出し続け、開幕ローテ入りを勝ち取った。前年には結婚。オフは年末年始も自費で施設を借り、ボールを握り続けた。家族を持つ責任感がみなぎっていた。

 08年3月29日・横浜戦(京セラドーム)。開幕2戦目の先発マウンドに上がった。二回、小関に適時打を許したが崩れない。三回1死から3連打でピンチを招いたが村田、佐伯の4、5番を連続三振。踏ん張った。味方打線も援護した。初回、先頭の赤星が二塁打で出塁。1死一、三塁から4番・金本が先制の二塁打を右線へはじき返した。さらに鳥谷もタイムリー。金本は六回に1号ソロも放つなど3安打2打点と気を吐いた。6回を6安打1失点の力投。最後を藤川が締めて、チームは4-3で勝利した。プロ入り3年、1軍登板6試合目。ようやくプロ初勝利をもぎ取った。

 試合後、藤川からウイニングボールを受け取った岩田は「いつも支えてくれるヨメさんに持って帰ります」と笑みを浮かべた。最初に思い浮かべたのが美佳夫人の顔。結婚後、献身的に食生活などサポートしてくれた。家族の存在があったからこそ、つかみ取れた初勝利。球場から妻に感謝の電話を入れた。

 この年、一気にブレーク。4月26日・巨人戦(甲子園)では初完投勝利も挙げた。27試合に登板して、前年秋のキャンプで岡田監督が予言した通り、10勝(10敗)をマークした。

 潜在能力が開花した岩田に日本代表スタッフも注目していた。09年3月開催の第2回WBCへ向け代表候補48人に名を連ねた。その後、1次候補から落選するもドジャース・黒田博樹が代表を辞退したことで“復活招集”され、世界一メンバーとなった。

 ここまで14年、第一線で戦ってきた。昨年4月18日のヤクルト戦(神宮)で564日ぶりの1勝。実に1402日ぶりの完投勝利だった。「涙が出そうだったよ」。必死に隠したが、声は確かに震えていた。

 焦る日々の中、転機となる“出会い”もあった。レアルマドリードで活躍するFWナチョ。同じ病気を患い、サッカーを諦めろと言われながら、一流クラブで戦う30歳だ。岩田はテレビで存在を知った。

 「物事をどうプラスに持っていくか。結局は、地道に努力し続けることが大切なんだ」

 36歳はもう一度、私生活から見直した。

 「中途半端じゃ辞められない。まだ始まったばかり。これから、これからやから」

 第一線で戦う教え子を、西谷は「不思議なやつ」と表現する。「でも、あいつらしいんですけど…」。そう言って、岩田の人柄を示す2つの秘話を明かした。

 2度の春夏連覇を含めて、7度の甲子園制覇は歴代1位。プロに在籍するOBも増え、出場する度に各地から差し入れが届く。「当然、どれもうれしいんです」。それでも…。

 「普通はみんな、業者に頼むんです。契約メーカーとかに。でも、あいつは絶対に自分で持ってきます。ホテルまで。大阪で近いのもあるでしょうが、僕はすごいと思います。律義なところですね」

 こんなこともあった。藤浪晋太郎、澤田圭佑(オリックス)と同期で、現在はホンダ鈴鹿に在籍する平尾圭太が、岩田と同じ時期に難病を患った。病名こそ違うが、励みになるのではと思い、岩田に電話をした。「時間ある時に、会ってやってくれないか」。すると岩田は、その日のうちに病院に赴き、平尾を見舞っていた。「病気は、神様が乗り越えられる人にしか与えないんだ」。励ましの言葉とともに、グラブが添えられていた。

 昨年12月4日。岩田は兵庫・西宮市の球団事務所で契約更改交渉に臨んだ。来季プロ15年目で初の現状維持となる3800万円でサイン。会見で誓ったのは下柳剛、能見篤史ら、ベテラン左腕の系譜を継ぐ覚悟だった。

 「現状維持は衰退なので。このオフは今よりも1ランク、2ランク上げられるように」

 昨夏の失速を教訓に新たな挑戦を始めた。10月下旬から高地トレーニング専門ジムに通う。高地環境を室内に再現し、30分動けば通常の4倍の効果が得られる。前日は標高3600メートルの低酸素空間で動いたが、これは富士山3776メートル級。“日本最高峰”の舞台で心肺機能を高めている。

 15年目、37歳シーズン。下柳は同年に15勝で最多勝を獲得し、能見は同年齢で規定投球回をクリアした。

 「この年齢になり、あの人たちの大変さを実感する。先輩たちはすごい。あそこに1歩でも近づきたいです」

 目指すのは年間のローテ死守と、5年ぶりの規定投球回到達だ。

 西谷は言う。「元々、遅咲きの人ですからね」

 覚悟と決意を持って、エース左腕ロードを歩む。なにより岩田には、使命がある。毎年、クリスマス会に足を運ぶ。

 「子どもたちの笑顔を見られてよかった。これは僕にしかできないこと。野球選手でいる限り続けたい」

 見てろよ、みんな。病気になんて負けるなよ。耐えて、耐え抜いた先に、笑顔があるんだ。泣けるほどの感動があるんだぞ。(デイリースポーツ・田中政行)

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