【平成物語13】希代のアイドルホースが“伝説”になった~オグリキャップのラストラン

 「平成2(1990)年12月23日 オグリキャップがラストラン」

 平成2年12月23日。現スタンド新装の竣工式を終えたばかりの中山競馬場には、現在も破られてない観客数17万7779人が押し寄せた。希代のアイドルホース、オグリキャップのラストランを目に焼き付けるために-。

 地方競馬の笠松で12戦10勝。4歳(現3歳)になった昭和63年にJRAへトレードされるや、登録のなかったクラシックとは縁がなかったが、いきなり重賞6連勝。12月には並み居る古馬を相手に昭和最後の有馬記念まで制してしまった。

 さかのぼること15年。昭和48年に大井競馬から移籍して第1次競馬ブームを巻き起こしたハイセイコーと同様、地方のたたき上げから中央の舞台に殴り込み、エリート馬たちを蹴散らしていく姿は競馬ファンに限らず人々の関心の的となり、判官びいきの庶民感情とも相まってオグリ人気は沸騰した。

 時はバブル絶頂期。ひたむきに走り、芦毛馬ゆえの愛きょうで女性雑誌にもたびたび取り上げられたオグリキャップだが、一方では大人のマネーゲームに巻き込まれたことでも話題となった。

 笠松時代の馬主・小栗孝一氏から中央の馬主資格を持つ佐橋五十雄氏へのトレードマネーは2000万円。その佐橋氏が平成元年2月に脱税による執行猶予付きの実刑判決を受けて馬主資格を喪失すると、今度は近藤俊典氏と1年3億円のリース契約が結ばれた。

 近藤氏は北海道日高の大手牧場に生まれ、建設用大型自動車関連の事業に成功してからの馬主歴は約四半世紀。「オグリキャップほどの名馬は持ちたいと思ってもなかなかかなうもんじゃない。金銭ではないんです」と言い、オグリが脚部不安でレースに出走できない時期も「どうせ馬貧乏してるんです。いまさら損を取り返そうなんて考えてませんよ」と笑っていた。

 しかし、世間の見方は違った。平成元年にはマイルCS優勝後に連闘でジャパンカップを走らせて2着。翌年は武豊との初コンビで安田記念は勝ったものの、続く宝塚記念は2着に終わり、秋は天皇賞6着、ジャパンカップ11着と成績が上がらなかった。

 そのまま引退か、有馬記念での有終の美を目指すか。JRAや栗東の瀬戸口きゅう舎には引退嘆願の手紙が数多く寄せられ、近藤氏には脅迫状まで届いた。そんな中で陣営は「闘志さえ戻れば結果は出る」と、武豊に再び手綱を託した。

 はたしてオグリは“伝説”となった。夕闇迫る中山競馬場は「オグリ」「オグリ」の大合唱に包まれ、翌朝のデイリースポーツ1面には「オグリ感動」「みんなが泣いた」の大見出しが躍った。(デイリースポーツ・関口秀之)

関連ニュース

編集者のオススメ記事

競馬・レース最新ニュース

もっとみる

    主要ニュース

    ランキング(競馬・レース)

    話題の写真ランキング

    写真

    リアルタイムランキング

    注目トピックス