五輪おじさんと“伝説の女性”を結ぶ秘話…学生時代に「度胸」を学び、五輪で開花

ロンドン五輪で観客と記念撮影する山田直稔さん。シャッター時の合言葉は「ラッキー」だった(撮影・北村泰介)
ロンドン五輪で、スペインの女性記者から取材を受ける山田直稔さん(右)
ロンドン五輪への出発を前に日の丸への寄せ書きを掲げる山田直稔さん
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 金色のシルクハットに羽織ハカマ、日の丸扇子…。“五輪おじさん”の愛称で親しまれた実業家の山田直稔さんが92歳で亡くなった。山田さんは2012年1月~4月にデイリースポーツで「五輪おじさん漫遊記」と題したコラムを連載し、同年夏のロンドン五輪では観戦記も担当。“山田番”として都内の自宅や居酒屋、ロンドンの競技会場やホテルなどで取材した話から、知られざる“原点”となった若き日のエピソードをご紹介する。

 「私の応援スタイルが確立された」という1968年のメキシコ五輪では、陸上5000メートル走でグラウンドに降りてメキシコ選手を激励し、13万人の観衆を総立ちにさせた。

 日本がボイコットした80年のモスクワ五輪では、24回もソ連大使館を訪れて現地で自由に応援ができるように交渉。ソ連の海軍大佐に「なんで北方領土を返さないの?」という直球質問をぶつけられるほどの信頼関係を築いた。開会式では「平和と友好」を意味するロシア語「ミルユードルジバ」を絶叫。「向かいの席に座ってたブレジネフ書記長夫妻が私に手を振ってくれた」と懐かしんだ。

 92年のバルセロナ五輪では出発前に大腸がんが見つかるも、1カ月間、現地に滞在。「当時66歳。まだ若かったし、本当に好きなことに向かい合ってる時は元気になるんだ。ハッハッハ」と笑った。

 豪快な逸話を残す“鉄人”だが、富山県から上京して日大工学部に入った学生時代は人の目を気にすることもあったという。そんな山田青年に自己アピールを教えてくれた女性が「阿部定」だと聞いて驚いた。大島渚監督の「愛のコリーダ」など数々の映画の題材となった昭和11(1936)年の「阿部定事件」で知られる、今では歴史上の人物である。ちなみに俳優・阿部サダヲの芸名の由来だ。

 戦後まもない頃の話。「阿部定が浅草の『星菊水』という店で働いていると聞いて、行きたいと思った。学生が料理屋で遊ぶわけにもいかないから、ダブルの背広を着て、鳥打ち帽をかぶって大人の格好で行ったんだ。定さんは色気があって、きれいで上品だったよ。そうしたら『あんた、学生さんでしょう』って見破られてね」

 山田さんが「分かった?」と聞くと、定は「あんた!勇気がないわね。学生なら学生らしく堂々と来なさいよ。遊びに来るのに、そんな度胸のないことではダメでしょ!しっかりしなさいよ。意気地がないわね」と一喝。さらに、「男は度胸、女は愛きょう。あんたさ、こざかしい!」という定の言葉に「ガツ~ンと“男の魂”までやられた」という。

 山田さんは「俺が『度胸』を決めたのは阿部定だったんじゃないかと思う。それは五輪の応援での『度胸』にもつながっているかもしれないね。あの時、彼女が着ていた上品な着物の柄が今でも目に浮かびますよ」と明かす。社会人になってからも交流は続いた。

 「阿部定の名刺を何枚もいただいた。まだあると思うから、探しとくよ。出てきたら、あんたにあげる」。名刺は見つからなかったようだが、何物にも代えがたい“いい話”を聞かせていただいただけでありがたかった。(デイリースポーツ・北村泰介)

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