放駒前理事長が急死 八百長問題で奔走

 大相撲の元大関魁傑で、放駒親方として第62代横綱大乃国(現芝田山親方)を育て、さらに一昨年まで日本相撲協会理事長を務めた西森輝門(にしもり・てるゆき)氏が18日午後に急死した。66歳だった。山口県出身。関係者によると、東京近郊のゴルフ練習場で気分が悪くなって救急車で運ばれ、都内の病院で午後3時21分に死亡が確認された。死因は不明。

 「休場は試合放棄だ」の名言を残し、66年9月の初土俵から79年1月の現役引退まで937回出場して一度も休場しなかった。どんなに体調が悪くても真摯(しんし)に本場所を務め、誠実な土俵態度から“クリーン魁傑”と呼ばれた。大関から2度転落しながら、不屈の精神で土俵に立ち続けた。横綱北の湖、輪島、大関貴ノ花らと70年代の大相撲人気に欠かせない存在だった。

 日大柔道部1年の時に、横綱初代若乃花を育てた元幕内大ノ海の花籠親方の目に留まった。力士になる気はなかったが、熱心なスカウトに中退して相撲界に飛び込んだ。新入幕まで5年かかったが、すぐに三役に定着。74年11月には横綱北の湖との優勝決定戦を制して初優勝。翌75年春場所で大関昇進を果たした。ところが肘の故障などで在位5場所で関脇に陥落。しかし、76年9月に14勝1敗で平幕優勝、77年3月には2度目の大関昇進を決めた。

 大関から陥落した直後の場所、関脇で10勝すれば大関に復帰できる。三重ノ海、貴ノ浪、武双山、栃東がこの規定で大関に戻ったが、いったん平幕に下がってから大関に返り咲いたのは魁傑しかいない。再び大関から陥落していた78年3月には大関旭国と3度の水入り、合計10分19秒の熱戦をすくい投げで勝つなど最後まで勝負に全力を傾けた。

 現役引退後は独立して放駒部屋を興し、横綱大乃国を輩出して指導者としても手腕を発揮した。その一方で、85年に花籠部屋を継承した元横綱輪島が不祥事で廃業した際には古巣の力士、行司ら30人を受け入れたこともあった。

 相撲協会理事長に就任後も、八百長問題では11年3月の春場所の中止を決定。力士の大量処分を断行して興行再開にこぎつけた。協会を定年退職してわずか1年3カ月、あまりにも早い相撲人生の終幕だった。

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