藤波辰爾 師匠の死に男泣き「『バカヤロー!!』って怒られそうで我慢していたけど」

 試合後に猪木さんを想い号泣する藤波辰爾
 藤波辰爾と対戦するアントニオ猪木=85年9月19日
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 「プロレス・ヒートアップ」(1日、とどろきアリーナ)

 藤波辰爾(68)が、師匠アントニオ猪木さんの死に大号泣した。悲しみに打ちひしがれながら、6人タッグマッチに出場。ドラゴン殺法を繰り出し、最後は猪木さんの得意技でもあったコブラツイストで弔い星。リング上から天に指を突き上げた。大会前には10カウントゴングで猪木さんを追悼し、入場曲「炎のファイター~INOKI BOM-BA-YE~」が鳴り響いた。

 人生を変えてくれた恩人との別れに、あふれる感情を抑えきれなかった。「本当につらいです」-。藤波はリング上では気丈に振る舞っていたものの、インタビューエリアではこらえきれずに男泣き。何度も「すいません」と赤いタオルで顔を覆い、「猪木さんに『バカヤロー!!』って怒られそうで我慢していたけど、つい本音が出てしまいました」と、おえつを漏らした。

 この日の朝、ニュースやSNSで訃報が飛び込んできた。「まさか!?」。目を疑った。「何も手がつかない。今も動揺して言葉が出てこない」。頭は真っ白。「くしくも(当日試合があり)僕がリングに上がっていいのか」と悩んだものの“退く”という選択肢は猪木イズムにない。師匠と同じ、おなじみの黒いショートタイツで元気にリングに立った。

 試合前に「ハッ」と気合を入れると、志願して先発。ドラゴンスリーパーやドラゴンスクリューを繰り出し、最後はコブラツイストで締め上げた。弔い星を捧げ、天に向かって指を突き上げた後、拳を握った。「僕はそういうのはしないタイプなんだけどね」と恥ずかしそうに言った。

 アントニオ猪木に憧れて1970年に日本プロレスに入門し、付き人となった。72年の新日本プロレス旗揚げ時も同行。88年には、控え室で猪木に世代交代を直訴し、自分の髪の毛を切って覚悟を示す“飛龍革命”も語り草となっている。50年来苦楽を共にしてきた猪木さんとの思い出について「一言じゃ話せない。僕は親を早くに亡くして、親と同じくらい(の存在)。本当に大きな人だった。プロレスの全てが猪木さんで、僕の人生そのもの」と目を赤くした。

 激動の人生を終え旅立った恩師。「これで猪木さん自身、リングシューズを脱いで普通の猪木さんとしてゆっくり休めるんじゃないかな」。昭和、平成、令和と全力疾走で日本社会を盛り上げたヒーローをしのんだ。

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