懐かしのホークス 穴吹監督が五輪の書と孫子の兵法を教材に2軍選手を徹底教育~池之上格の南海話

 南海ホークスに池之上格というガッツマンがいた。バットを極端に短く持ち、死球大歓迎の無鉄砲な男。現役引退後は実直な人柄と幅広い人脈を生かしたスカウトマンとして活躍した。そのイケさんが自ら仕えた6人の監督を偲び感謝の言葉を捧げるコラム。第5回は社会人教育にも熱心だった穴吹義雄さん。

 ◇ ◇

 僕には「人生を支える5つの言葉」があるんです。それは野村克也さんの「短所欠点の矯正」「慢心せず、失望せず」と穴吹義雄さんの「俺の色に染まれ」「大きな声を出せ」「全力疾走」の5つ。

 穴吹さんは僕が入団したころの2軍監督でその後、1軍監督になった。そういう意味では常に僕の横にいてくれた人でもあった。

 ビックリしたのは入団に際して契約前にもかかわらず、わざわざ鹿児島まで足を運んでくれたことだった。同行したスカウト担当で当時60歳の石川正二さんが、九州からは柏原純一(八代東)や定岡智秋(鹿児島実)らが南海に入団しているし、育成じょうずな穴吹さんに預けているから、君も心配しないでいいと言ってくれてね。

 そのとき穴吹さんは、自分で作った50~60種類の走攻守のサインを記したノートを持参し、「これがプロや」ということを話してくれた。

 また野球選手にとどまらず、社会人としてどうあるべきかということも教わった。まず最初に新入団の1年生全員を前にして「俺の色に染まれ」と宣言した。この先プロとしてやっていくために俺が指導し教育する。だから俺についてこいと。

 凄い自信だった。一瞬で“親分が言うのだから間違いない”と思わせるリーダーシップに引き込まれた。

 「大きな声を出せ」「全力疾走」は選手として当たり前ではあるが、しっかり挨拶をする、全力で仕事をするという姿勢にもつながる。いま僕は人材発掘などの仕事をしているが、学生や社員に対して常に自分のほうから大きな声で挨拶をするように心掛けている。もうすっかり身についてますね(笑い)。

 社会教育という意味では、合宿所の“寮生”みんながハードケースに入った五輪の書や孫子の兵法などを買わされて、ミーティングの教材にしていたほど。先生役はもちろん穴吹さん。2時間の勉強会をサイダー1本で頑張ったね。

 僕が1軍に初めて昇格したときは「男の身だしなみや」と男性化粧品セットをプレゼントされ、2軍から送り出してもらった。そういうものには全く興味がなかったが、お陰様でというか、大阪球場に近い百貨店の化粧品売り場で働いていた家内(和代)と知り合うきっかけにはなった。

 当然ながらプロの練習も厳しくて、とことん鍛えてもらった。「心技体」ではなく「体心技」の順序を重んじた人だから半端ではなかった。午前は2軍で練習し、午後は1軍へ合流して打撃投手を務める。朝から夕暮れまで、ずっと練習していた。

 ちなみに中モズでの練習上がりに用意された昼食は結構、粗末なものでしたね。インスタントラーメン1杯だから。そこに生たまごを乗せたらご馳走という感じだった。そしてシャーベット状になったサイダー。これで終わり。

 あのメニュー、夏場は最高でしたよ。熱いし冷たいし。胃袋も鍛えられたかな。今ならノーグッドでしょう。

 穴吹さんは自分の時間を選手のために割けることのできる人でもあったね。だれよりも朝早く2軍の中モズ球場(現大阪府堺市北区中百舌鳥町)へ来て、トラクターに乗ってグラウンド整備をする。選手が帰ったらまたトラクターに乗る。ライン引きや水まきは1年生の仕事だったから、穴吹さんのそういう姿を僕らはいつも見ていた。

 中モズ魂とでも言うのかな。そこで経験した人たちは、その後もしたたかに生きているはずですよ。

 投手として入団し、4年目にようやく1軍へ上げてもらった。そこで挫折し、2軍で鍛え直されてまた1軍へ。その間、ずっと2軍の再生工場で面倒を見てくれていた穴吹さんは、いわば僕のお師匠さん。

 1977年10月6日の日本ハム戦。僕がプロ2勝目を完封で飾ったときの1軍監督は野村さんではなく、穴吹さんが代行していた。野村さんは途中退任していたから。ちょっと複雑な気持ちだったが、野村さんも穴吹さんも僕にとっては人生の原点を作ってくれた人。感謝しかない。

 穴吹さんが1軍監督をしていたのは1983年から3シーズン。その間は遠征先に向かう飛行機の中、移動の新幹線やバスの中、宿泊先のホテルでも話し相手をすることがあった。そこでは本音トークで多くのことを学んだものです。

 あれは結婚の報告で穴吹さん宅を訪問したときのことだった。通された部屋は本だらけで、あまりの多さに圧倒されてしまった。勉強家であり、その博識の高さにも。野球はもちろん多岐にわたる話を聞いたが、常在戦場もその一つで、「練習のための練習ではダメ、常に試合本番を意識した姿勢」というものを叩き込まれた。

 野手転向後の僕がレギュラーとして起用されたのもこのころ。そのうちナイマンという外国人選手が入ってきて僕は一塁から三塁へ回ったり、また一塁を守ったり。正選手の期間は短かったが、少しでもお師匠さんを支えようと必死だった。

 その後、巡り巡ってダイエーホークスの一員として再会することになるとは。そのときは立場が変わり、穴吹さんは編成部長だった。僕はスカウト担当デスク。これもまた縁というものなのでしょう。

 ◆池之上格(いけのうえ・とおる)1954年5月19日、鹿児島県垂水市生まれ。72年度のドラフトで右投げ右打ちの投手として南海に3位入団し80年に野手転向。87年に大洋へ移籍した。実働16年。投手時代は2勝0敗(1完封)。打者としては570試合で15本塁打、97打点、打率・269。83年はパ・リーグ最多の16死球を獲得している。

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