“考える人”ドン・ブレイザーが何よりも好んだのがアグレッシブ・ベースボール~池之上格の南海話

 南海ホークスに池之上格というガッツマンがいた。バットを極端に短く持ち、死球大歓迎の特攻野郎。現役引退後は実直な人柄と幅広い人脈を生かしたスカウトマンとして活躍した。そのイケさんが自ら仕えた6人の監督を偲び感謝の言葉を捧げるコラム。第4回はアグレッシブな姿勢を最も好んだというドン・ブレイザー(ドン・リー・ブラッシンゲーム)さん。

 ◇ ◇

 僕が南海に入団して最初の5年間は野村克也さんが1軍の監督をしていた。その野村さんから「短所欠点の矯正」は自分を見極めることにつながると教えられ、「慢心せず、失望せず」という戒めの言葉もいただいた。この2つは僕の原点になっていて、すべてがここに行き着くのです。

 野村監督のあとを継いだ広瀬叔功さんには野手への転向を勧められ、野球選手として生きていく道を作ってもらった。

 その次の監督がブレイザー。彼は野村監督時代のヘッドコーチで、野村さんがよく「野球とは何か」を問うて、教えを受けていた。それが考える野球=シンキング・ベースボールに通じていくのだけれど、後に広島の古葉野球にも伝播していった。

 ただ僕におけるブレイザーの印象はむしろ、闘争心をムキだしにして戦う闘士そのもの。実際にアグレッシブなプレーを好み、常に実践させようとしていた。

 1976年の開幕。入団4年目の僕は投手11人枠に滑り込みで入り、念願の1軍入りを果たした。オープン戦の防御率が13イニングを投げて阪急の戸田(善紀)さんと並ぶ0・00。クイックや牽制が得意で、「南海の堀内(恒夫)」と言われたこともあった。そんな“守備力”も買われての抜擢だったかもしれない。

 ちなみに当時、クイックモーションという言葉はなく、「すり足」とか「早投げ」と言ってましたけどね。

 しかし、投手としての評価だけが理由ではなかったように思う。

 その年のオープン戦で僕は広島の高橋里志さんから右中間への二塁打を打ったことがあった。そのあと捕手の柴田(猛)さんが三塁方向へボールを弾くのを見て三塁を狙ったら、間一髪セーフになった。

 このプレーにブレイザーが顔を真っ赤にして「グーッド!グーッド!」と言って盛んに褒めてくれた。「あいつは何をも恐れないアグレッシブなやつだ」と。投手だから無難にという考えはないようだった。

 あのころ12球団ナンバーワンと言われた南海の投手陣ですからね。そこへ押し込んでくれたのがヘッドコーチのブレイザーだった。

 監督として戻って来たあとのブレイザーは、すでに野手に転向していた僕を主に守備固めで使ってくれた。当時はこの守備固めからの脱却、もっとうまくなりたい一心で昼は2軍戦、夜は1軍の親子ゲームに率先して参加するようにしていたんですよ。

 ところが3試合、4試合と続けて出るものだから、ブレイザー監督から「イケ、1軍の試合に備えてくれ」とストップがかかったことがあった。僕に2軍の試合に出るなと言った唯一の監督でしたね(笑い)。でもいろんな面で僕のことを気にかけくれて、支えてもらった。

 ただ1軍戦力としてやりがいを感じる反面、たまにアテ馬(偵察要員)で使われた時は悲しいものがあった。その時点で仕事が終わったも同然だから。

 (アテ馬は予告先発のなかった時代、相手投手の予想が難しい時に使われた手法で“あがり”の投手を使うのが一般的だった)

 だから“せめて初回の守備だけでも使ってくれ”と頼んだことがあったけど、ダメだったね。

 そういう場合、ベンチの隅っこで“番手”の役をやるんですよ。バッテリーへ向けて専用のサインを送る役目。配球ではなく、捕手が何番目に出したサインが有効かということを、何らかの仕草で伝えるというもの。

 たとえば「1」だったら投手は捕手が最初に出したサインに従う。「2」なら2番目、「3」なら3番目に従うというように。

 ときには三塁手の藤原(満)さんが出すこともあった。それぐらいナーバスになっていた。相手チームにサインを見られているかもしれないからと。特に敵地ではね。それはウチがやっていたからですよ。

 南海では緻密というか面白いことをやっていましたね。あくまでも傾向と対策ですけど(笑い)。今思えば懐かしい。それも含めて考える野球、準備野球ですね。

 シンキング・ベースボールというのは基本的なフォーメーションプレーがその土台になっているんです。ボールがどこへ飛べば、野手はどう動くか。ひとつのボールに対して投手を含めて全員が動く。フォローする。それが何十通りもある。

 またバックアップとはボールに触れる人の後方で対応する動きのことであり、ベースを守るカバーリングとは違う。暴投は投手が投球時に犯すもので、悪送球は野手が犯すもの。そんな説明までしてあった。何も難しくはない。当たり前のことではあるが、それを文字で表しているから理解しやすいわけですよ。

 でも僕の場合はシンキング・ベースボールの前にアグレッシグ・ベースボールを意識した。83年にパ・リーグ最多の16死球を獲得したことがあるが、デッドボール上等の精神を身につけることができたのも、ドン・ブレイザーの闘争心に触れることができたからこそだったと思っている。

 ◆池之上格(いけのうえ・とおる)1954年5月19日、鹿児島県垂水市生まれ。72年度のドラフトで右投げ右打ちの投手として南海に3位入団し80年に野手転向。87年に大洋へ移籍した。実働16年。投手時代は2勝0敗(1完封)。打者としては570試合で15本塁打、97打点、打率・269。83年はパ・リーグ最多の16死球を獲得している。

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