1イニング3暴投と11失点の男 投球イップスを克服して再び野村克也とバッテリー~池之上格の南海話

 南海ホークスに池之上格というガッツマンがいた。バットを極端に短く持ち、死球大歓迎の特攻野郎。現役引退後は実直な人柄と幅広い人脈を生かしたスカウトマンとして活躍した。そのイケさんがコラム「いけのうえ」の中で自ら仕えた6人の監督を偲び感謝の言葉を捧げる。第2回は初回に引き続きプロ入り時の1軍監督だった野村克也さん。

 ◇ ◇

 投手として南海ホークスに入団した僕は4年目の1976年に1軍投手11人枠に入った。オープン戦の成績が阪急の戸田(善紀)さんと同じ防御率0・00だったことで認められ、開幕から当時球界でもトップクラスと言われた投手陣の仲間入りができた。

 そこでリリーフの経験を積ませてもらったのだけれど、1度大きな失敗をやらかして“投球イップス”のような症状になったことがあった。忘れもしない1イニング3暴投、11失点というやつですよ。

 (1976年7月25日・近鉄戦=大阪球場=の六回2死満塁でリリーフ登板。快調にゼロを並べていたが、九回に突然調子を乱して3暴投と11失点を記録。九回2死で降板するまで3回0/3、7安打、6四球だった)

 六回はうまく切り抜けたんだけどね。佐々木恭介さんを右飛に打ち取って。佐々木さんは「イケは嫌やったわ。どこに来るか分からん。怖かった」と言うぐらい苦手にしていたみたい。ところが、九回がねえ。

 1球目は右打者への外角低めのスライダー。ほかの2球は野村さんが普通に立ち上がれば捕れた球。球速で言えば150キロも出てないんだから。あれは野村さんの怠慢ですね(笑い)。センターを守っていた新井(宏昌)さんも言ってたなあ。「あれ普通に捕れるやん」って。

 (当時の新聞には「試練を与えるため」というプレーイングマネジャーだった野村監督のコメントが載っている)

 このときの様子を記したノートを読み返してみると試合後、佐藤道郎さんに飲みに連れていってもらってるんです。でも人に甘えてはいけない、酒を飲んでもピッチングは良くならないぞ、とも書いている。とにかく這い上がるんだと。

 その後、1カ月の猶予をもらいながらも結果が出ず8月30日に1軍登録抹消。野村さんからは原因究明を厳しく求められた。そして腐らずにやれと。このころは肘の出し方、投げ方まで分からなくなっていたのでね。

 しかし次の年に、野村監督から初めて認めてもらえたと思えるシーンがあった。1977年の8月31日、県営富山球場で行われた阪急ブレーブスとのダブルヘッダーの第2試合。

 その前日、皇子山での阪急戦にリリーフして2イニングを完璧に抑えたことから、急きょ翌日の先発が決まった。たまたま金城(基泰)さんが肘の調子を悪くして、僕にお鉢が回ってきた。

 その試合で一死一、二塁のピンチを招いたときだった。野村さんが内角へのシュートのサインを出してきた。フルカウントになるとシュートのサインを出すことが多い野村さんだったけど、その時のカウントは2ストライク1ボール。打席には強打者の島谷金二さん。

 僕としてはシュートで打ち取るには技術的に不安があったので何度か首を振った。それでもシュートを要求され、怖かったけど腹を決めてサインどおりに投げたら見事に三塁ゴロ。藤原(満)-河埜(敬幸)-柏原(純一)へと渡るダブルプレーで、このピンチを切り抜けることができた。

 すると野村さんがこちらを見てニコっと笑い、「ナイスボールや!」と言って初めて褒めてくれた。あの時は本当にうれしかった。

 根拠のある配球だったんでしょう。サインに従ってよかった。ただ、シュートのサインにちょこっと僕なりに色を着けて、抜き気味のシンカー系にして投げたという感じかな。

 1イニング3暴投、11失点という屈辱の登板から1年。なんとか1軍へ這い上がり、そしてまた野村監督とバッテリーを組む機会を与えてもらった。それ自体ありがたいのに、そこで好投することができたんです。

 その試合は勝ち投手の権利を残したままマウンドを降りて、そのあと追いつかれたんで勝利投手にはなれなかったけど、すごく印象に残る登板になった。

 この年の10月6日のシーズン最終戦、後楽園での日本ハム戦で完封したんですよ。球数90。今で言うマダックス。これがプロ2勝目。この2勝で僕の投手としての1軍実績は終わり。

 でもこの完封試合に野村さんはマスクをかぶっていない。シーズンが終わる前に解任されていたんでね。だから凄く残念だった。

 僕の人との出会いを振り返れば、お世話になった方というのは1度だけで終わらず、2度目があるんです。野村さんの場合は阪神監督時代にスカウト担当として呼んでもらい、仕事をさせてもらっている。

 1999年にダイエーを退団してすぐにオファーがあったが、球団の事情で1年後に入団。当時「チームを変えよう」と取り組んだのが野村さんだった。選手もフロントも。そして「チームを強くするのは編成、スカウト」と語っていた。

 野村さんは常々「エースと4番」を獲ってくれと言っていたが、就任直後にドラフトで1位指名したのが今の阪神監督の藤川球児。ドラフトと編成で勝つ-という球団の指針は、そのころから徐々に根づいていったように思う。

 僕は野村さん以降、選手としては広瀬叔功、ドン・ブレイザー、穴吹義雄、杉浦忠、古葉竹識という6人の監督に仕えているんです。すべての監督が僕の恩人なのです。

 ◆池之上格(いけのうえ・とおる)1954年5月19日、鹿児島県垂水市生まれ。72年度のドラフトで右投げ右打ちの投手として南海に3位入団し80年に野手転向。87年に大洋へ移籍した。実働16年。投手時代は2勝0敗(1完封)。打者としては570試合で15本塁打、97打点、打率・269。83年はパ・リーグ最多の16死球を獲得している。

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