「4人のヒロシ」がホークスの内野埋める 「ガメ」の愛称は杉浦監督に心配され…湯上谷さんの回想
内外野を守れるユーティリティープレーヤーとしてホークスで活躍した湯上谷竑志さん(59)。16年間の現役時代は「ガメ」の愛称で親しまれた。石川・星稜高からドラフト2位で南海に入団し、プロ1年目につけられた愛称とは別に、名前の「ヒロシ」が話題となったことも。現在は福岡市内でもみほぐし店「りらくる」のセラピストを務める湯上谷さんが、名前にまつわる懐かしい話題を回想した。
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湯上谷さんには「ガメ」というちょっと変わった愛称がある。
チームメートはもちろん、ファンからも親しみを込めて呼ばれてきたが、どういういわれがあるのだろうか。
「南海に入った当時、投手コーチに中原さんって方がいらっしゃって。僕と同じ『ヒロシ』(宏)っていうんですけど。その方が僕の名前を『ガメ』ってつけたんです」
85年のプロ1年目当時に2軍投手コーチを務めていた中原宏さん(阪神-南海)が名付け親だったという。
若手の鍛錬の場であった中百舌鳥(なかもず)球場では声出しが名物だった。
「中原さんはホームベース付近でパイプ椅子に座って、僕らはセンターにミカン箱を持っていって、そこから声を出す。団地が近くにあるんですけど、『迷惑かけてすみません』『今度新しく入団しました湯上谷です』とか、『中原コーチ、男前!』とか言うわけです。聞こえて面白かったりすると、中原さんが(両手で)マルってやってくれるんですよ。ちょっとおちゃめなところがある人でした」
中原コーチを中心に行われた、のどかな練習風景を懐かしんだ。
「ユガミダニ」という長い名字を略して当初は「ユガ」と呼ぶ人もいたというが「中原コーチはなんでか知らないですけど、僕のことを『ガメ』『ガメラ』って呼んだんです。ハア…って思いながらも悪くないよねと。当時から映画で『ガメラ』があったし、いいかって思ってたんです」
1965年に公開されて人気となり、のちにシリーズ化もされた特撮映画に登場する怪獣を連想させる名前を気に入っていたという。
「ガメ」はチーム内外で定着していった。
退任した穴吹義雄監督に代わり、86年から監督に就任した杉浦忠氏からは愛称について心配されたことがあった。
「新しく監督になられた杉浦さんに呼ばれたんです。『おまえ、今のニックネームは気に入ってるのか』って。気に入ってないことはないですよ、面白いなと思ってますって言いましたね。愛着もあったし、ファンの人たちがそうやって応援してくれるのはうれしかったですね」
新監督が気に懸けて聞いてくるほど、インパクトのある呼び方だったということだろう。
その後、「ガメ」ではなく、本来の名前である「ヒロシ」に注目が集まったことがある。
チームに「ヒロシ」の名前を持つ内野手が集結したのだ。82年に南海に入団した藤本博史選手、83年に西武から移籍した小川史選手、85年からの湯上谷さん。87年のシーズン途中に広島から移籍した森脇浩司選手。内野の複数ポジションを守れる4人の「ヒロシ」だった。
「“全員ヒロシ”ですね。森脇さんが南海の最後の方に来て、南海でもできて、ダイエーでもできた。サード森脇ヒロシ、ショート小川ヒロシ、セカンド湯上谷ヒロシ、ファースト藤本ヒロシ。これはちょっと有名になりましたね。みんな字が違うヒロシなんです」
湯上谷さんは当時の守備位置をひとつずつ口に出して懐かしんだ。ダイエー時代の90年7月29日のロッテ戦では、この布陣で「4人のヒロシ」がスタメンに名を連ねるなど、当時のファンを喜ばせた。
「『ヒロシ』って呼ばれて振り向かないのは、僕だけです。『ガメ』って言われてたんで。誰かに『ヒロシ』って呼ばれたら、小川さんと藤本さんがパッと見て、森脇さんはあとから見てたかな」
「4人のヒロシ」の中で、愛称があった湯上谷さんは1人、涼しい顔をしていたようだ。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇湯上谷竑志(ゆがみだに・ひろし)1966年5月3日生まれ。富山県出身。石川・星稜高から84年のドラフト2位で南海入り。1年目から遊撃手として1軍出場を果たす。ダイエー時代の90年からは二塁のレギュラーとして活躍し3年連続全試合に出場。内外野を守れるユーティリティープレーヤーとして活躍し、2000年に引退。プロ在籍16年で通算1242試合、打率・258、141盗塁。ソフトバンクの育成、1、2軍の内野守備走塁コーチを務めた。現在はもみほぐし店「りらくる」福岡小笹店のセラピスト。





