【野球】ドラフト2位の高卒ルーキーが背番号14を選んだ理由 初の1軍ベンチでは先輩から怒声 ホークスで16年の湯上谷さん
内外野を守れるユーティリティープレーヤーとしてホークス一筋に活躍した湯上谷竑志さん(59)は、1984年のドラフトで南海(現ソフトバンク)から2位指名された。大学からの誘いもあったが、石川・星稜高からプロ入りを決意し、1年目から1軍で結果を残していった。現在、福岡のもみほぐし店「りらくる」のセラピストとして働いている湯上谷さんが、プロとして踏み出した当時を振り返った。
◇ ◇
1984年11月20日に行われたドラフト会議。湯上谷さんは穴吹義雄監督率いる南海から2位指名を受けた。
「南海?って感じでした。当時は阪急の方や、ロッテの方が高校には来られていたので。2位の指名もちょっとびっくりしたかな」
意外な球団からの高評価を思い起こした。その年、南海は佐々木修投手(近大呉工学部)を1位で指名したが、競合した近鉄が交渉権を獲得。田口竜二投手(都城)を1位指名している。
湯上谷さんのもとには、東京の名門大学からの誘いもあった。星稜の山下智茂監督からは、大学に行ってオリンピックに出てほしいという願いも伝えられていたという。84年のロス五輪で野球は初めて公開競技として開催され、大学・社会人で代表メンバーは構成されていた。
「大学に行ってる暇があるかどうかというのが、僕にとって怖い点だった。4年間って自分にとってどうなのかと。4年間行って、じゃあプロ野球に入れることになるのか。大学でつぶれてしまうんじゃないかということが頭の中にあって、それだったら、もう早くプロに行った方がいいと思ったんです。オリンピックに出られるような体形もしてないし、そんなレベルでやっていける自信もなかった」
プロに行くにあたって球団にこだわりはなく、18歳の少年は南海入りを決断する。背番号は14。「山下監督から当時、南海で一番若い数字の背番号をもらえと言われて、14が空いてたんです。内野手ではめずらしかったですね。今で言えば、かっこいいですけどね」。その後背番号は14→7→6と変遷していく。
1年目の8月20日、初めて1軍ベンチに入った。
「出場選手登録されて、チャンスがあったらいくぞって話を聞かされたんです。試合が始まって、いつでも行ける準備をしとこうと思って、ベンチの後ろで一生懸命に体を動かしてたら、先輩に『早過ぎる、ベンチの中で声出しとけ』って怒られて。一回からずっと準備してたんで。今だったらあり得ない話なんですけどね、右も左も分からないし純粋だったんで」
その日出番は訪れなかったが、翌21日の阪急戦、湯上谷さんは9番・遊撃でスタメン起用され、プロ初出場した。
相手先発は今井雄太郎投手。結果を出したい一心でバットを短く持って打席に立ち、必死に食らいついた。
「絶対インコースに来ると思って、そこをなんとか打ち返したら一、二塁間のヒットになって。これで一週間(1軍で)もったと思って塁に出て。次の打席は、今度は変化球が来るんじゃないかと予測したら、案の定スライダーが来てレフト前ヒット。2打席連続ヒットだから、これで1カ月はもつなって。結果として万々歳でした」
以降は遊撃でのスタメン起用がシーズン終わりまで続いた。1年目は37試合に出場、32安打を放ち7打点6盗塁、打率・262。2軍ではウエスタン・リーグの盗塁王を獲得している。
「阪神の大野(久)さんと行ったり来たりで。1軍と親子ゲームがあったりして終盤はあまり伸びなくて、最後は危なかったんですけどね。一応とらせていただきました。タイトルはプロ野球の中で、それだけです」
1、2軍の試合を掛け持ちするようになり、数字を伸ばせず猛追されたものの、33盗塁で逃げ切りに成功した。
6年後の91年。湯上谷さんは1軍でキャリアハイの30盗塁をマークする。その年のパ・リーグの最多盗塁は、ダイエー移籍1年目、チームメートとなった大野選手の42盗塁だった。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇湯上谷竑志(ゆがみだに・ひろし)1966年5月3日生まれ。富山県出身。石川・星稜高から84年のドラフト2位で南海入り。1年目から遊撃手として1軍出場を果たす。ダイエー時代の90年からは二塁のレギュラーとして活躍し3年連続全試合に出場。内外野を守れるユーティリティープレーヤーとして活躍し、2000年に引退。プロ在籍16年で通算1242試合、打率・258、141盗塁。ソフトバンクの育成、1、2軍の内野守備走塁コーチを務めた。現在はもみほぐし店「りらくる」福岡小笹店のセラピスト。





