【野球】若手有望選手の急死で悲しみに包まれた85年の南海 “急造”ショートに挑んだ湯上谷さん 大先輩・門田さんからは貴重な助言
石川・星稜高からドラフト2位で南海(現ソフトバンク)に入団した湯上谷竑志さん(59)は、16年のプロ生活をホークスで過ごした。1年目の1985年には8月から1軍で遊撃手として起用され、出場を重ねていったが、その背景には苦しいチーム事情もあった。エラーを連発する新人ショートに優しく声をかけてくれた先輩投手、打撃好調だった新人に含蓄のある助言をくれた大御所、門田博光選手との思い出を振り返る。
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湯上谷さんが入団を決めた南海は、85年の年明け早々に悲しみに包まれていた。1月4日、内野手の久保寺雄二さんが帰省先の静岡で心不全のため急死。26歳の若さだった。
藤原満ヘッドコーチの背番号7を引き継いだ有望選手の突然過ぎる訃報は、チームにとって大きなショックであり、戦力的にも大きなダメージだった。
「定岡(智秋)さんはアキレス腱のケガをしてからまだ1、2年だったし、ショートがいなかった。小川(史)さんがいて、僕が入って。その後、森脇さんが(トレードで87年に)入ってきてっていう形なんですけど。僕が1番若かったんで、とにかく早くショートを作るってことでやったみたいな感じでしたね。藤原さんとかが一生懸命ノックを打ってくれて」
遊撃のレギュラーだった定岡選手は84年の5月にアキレス腱を断裂して戦線離脱。以降は三塁手の久保寺さんが代わって遊撃の守備に就くことが多くなっていた。深刻な内野手不足を補うため、穴吹義雄監督は新人の湯上谷さんを遊撃手として起用すべく、藤原ヘッドコーチらに託したのだった。
8月21日の阪急戦で湯上谷さんは9番遊撃でスタメン起用され、1軍初出場し4打数2安打。その後も試合出場を重ねていったがプロの試練を味わっていたという。
「エラーが多くて、ピッチャーの人に迷惑をかけました。藤本修二さんが、エラーを気にするなよって言ってくれて。エラーだったら自責点がつかないからって。センターやレフトに抜けるボールを抑えてくれれば、オッケーだからって。だから、打球が外野に行くのを止めるっていうのをとにかく一生懸命やりましたね。ニャンコさん(藤本さんの愛称)は優しかったですね」
先輩投手の言葉に救われたことを思い起こした。
大御所からも貴重な言葉をもらった。
デビュー戦以降、打撃好調を維持し、1カ月で3割近くを打っていたころに「門田さんとお話をする機会があったんです」と振り返る。
当時37歳、プロ16年目のベテランだった門田博光さんは「野球って面白いやろ」と声をかけてくれた。
「はい、今本当に楽しい感じです」
素直に答えた新人に、門田さんは続けた。
「けどな、これからが大変なんよ。今は打ててるかもしれない、打たせてもらってるかもしれない。けど、これからもっと他のところで攻めてきたりしてくることが多くなってくるから、これからが大変よ」-。
新人選手が乗り越えなければならない壁。大御所からの示唆に富んだ言葉は現実となった。
「案の定というか、やっぱり早かったです。3割打ってるバッターという状況がそろってきたんで、他の球団がどんどんいろんな所を攻めてくるし、どこが弱いかわかってくるんで。だから次の年のスタートが肝心だと、自分が本当にやっていけるかどうかの正念場だったかなと思いますね」
左打ちの大砲である大先輩とは、選手としては全くタイプが異なったが不思議と気が合った。
「周りの人はどう思ってたか分かりませんけど、僕は親しみやすいオッサンって感じで付き合わせてもらったんですよ。読む本もたまたま一緒だったりして」
書店で、テニスのナブラチロワ選手ら一流アスリートの食事指導をしていた米医学博士の著書「食べて勝つ」を見つけて、その話を門田さんにしたところ「俺もそれを読んでるよって。年を取って体が動かんようになるとつらいからな、と。食事面からも気を使ってるってプロってすごいなあってつくづく思ったんです」
不惑の大砲、中年の星と呼ばれ、74歳で旅立った先輩をしのんだ。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇湯上谷竑志(ゆがみだに・ひろし)1966年5月3日生まれ。富山県出身。石川・星稜高から84年のドラフト2位で南海入り。1年目から遊撃手として1軍出場を果たす。ダイエー時代の90年からは二塁のレギュラーとして活躍し3年連続全試合に出場。内外野を守れるユーティリティープレーヤーとして活躍し、2000年に引退。プロ在籍16年で通算1242試合、打率・258、141盗塁。ソフトバンクの育成、1、2軍の内野守備走塁コーチを務めた。現在はもみほぐし店「りらくる」福岡小笹店のセラピスト。





