「稲尾さんは本当に神様」ノムさん、星野さん…レジェンド支えた新人王投手・佐藤道郎 私生活では2度離婚
プロ野球の南海(現ソフトバンク)で新人王、セーブ王に輝き、指導者としてもロッテ、中日、近鉄で実積を残した佐藤道郎さん(72)は現在、都内の東急東横線・学芸大学駅近くでスナック「野球小僧」のマスターをしている。選手、コーチとして仕えたのは超大物ばかり。なかでも「神様!仏様!稲尾様!」と言われた稲尾和久さんには亡くなった今でも律儀なほど心酔している。
酒豪として知られ、豪快かつ柔軟さをモットーに現役時代を過ごした男の信条は「遅いボールを速く見せる」こと。彼はこんなたとえ話をし、ニヤリと笑った。
「速球はベッピンさん。最初の2人が普通で3人目が少しきれいだと、より美人に見えるでしょ。ピッチングもそれと一緒。チェンジアップやスライダーを効果的に挟むと、120キロくらいの球でも速く見えるんだ」
1969年に日大からドラフト1位で南海入団。野村克也監督からリリーフ投手としての才能を見込まれ、18勝をマークし新人王と最優秀防御率の2冠に輝く。その後2度セーブ王となった。
だが、移籍した大洋(現DeNA)では練習に対する方向性の違いから別当薫監督と衝突。80年に退団した。4年後、投手コーチとして最初に声を掛けてくれたのが当時ロッテを率いていた稲尾和久監督だった。
試合が終わるとなじみのバーに「飲みにいくぞ」と誘われた。肩を並べて飲む男同士の酒。「ミチを呼んで良かったよ」と細い目をさらに細めた稲尾さんと握手したときの右手の感触は、今でも忘れられない。
「そうそう、ロッテでは稲尾さんと落合を4番にすることを決めたんですよ。その後、中日でコーチをしていたら星野さんが落合を呼んで、また出会った。次の中日では落合監督の下、私が2軍監督で日本一にもなったんです」
こんな運命も稲尾さんとの出会いがすべて。稲尾さんの葬儀では棺を担いだ。開店前に店をのぞくと、恩人とのツーショット写真に佐藤さんが手を合わせているではないか。
「いつも店が始まる前に語り掛けるんです。あの人は本当に神様みたいな人間性です。男が男に惚れるというのはこのことですね。球界にあらゆる曲者がいる中で、あれだけ人間的に優しく、人をだまさない人はいない」
91年からの3年間は近鉄の投手コーチも務め、鈴木啓示監督と野茂英雄との確執を間近に見た。吉井理人(現ロッテ投手コーチ)については指揮官の反対を押し切って先発を提案した。
野茂はその後、ドジャースに移籍。「日本中から批判され、野茂は反逆児扱いされたけど、俺は声を大にして『天下の近鉄は野茂を堂々とメジャーへ行かすべきだ』と公言したんだ」。野茂は日米球界の架け橋となった。
スナック「野球小僧」は今年で開店から11年目に突入した。店名は「子供を教えるアマチュアの指導者やお父さん、お母さんがお客様になってほしい」という願望から名付けたもの。5人ほど座れる高級ソファーがふたつ置かれ、3人ほど並べる小さなカウンターがある。マスターと一緒に飲めるファミリーなお店だ。
南海時代に同僚だった堀井和人さんや前中日監督の森繁和さんがお客さんを紹介してくれるそうで「助けられてます」という。中には73年のプレーオフで阪急の強力打線を封じたことを覚えている熱心な阪急ファンが「あのときは佐藤道郎が憎かった」と所沢市から会いに来たこともある。
5年前に2度目の離婚をしてからは1人で経営。元妻の連れ子が、ソフトバンク・和田毅の妻で元アイドルの仲根かすみさんだったことで、一時は夫妻とも付き合いがあったが、独身となった現在は疎遠になっているという。3年前には病魔にも襲われた。
「喉がおかしいなと思い、病院に行くと喉の血管が細くなっていると言われ、手術しました。生まれて初めてのメスだった」
そんなつらいときも頼るのは尊敬する稲尾さんだ。「まだ迎えには来ないでください。もう少し生きて頑張りたい」
その佐藤さんが「ぜひ、これだけは書いてくれ」と言ったのは高校野球の球数制限問題だった。
「これをやると公立校の部員の少ない野球部がつぶれます。球数で投手を代えるとなると、その分人数が必要。部員が少ない野球部では対応できない。野球の破滅につながります」
さらに、佐藤さんはロッテにドラフト1位で入団した佐々木朗希にも触れ、指のケアの大切さを強調した。「私が日大からプロに入りした際、データ野球の野村さんが開口一番言った注意事項でした。それからは普段から人差し指と中指で机の上を叩いたり、電車では窓に指をこすり付けて指先を鍛えたものです」
店を出ようとすると「やり残したことがまだある。ユニホームが着たい」とポツリ。最後に呟いた言葉が印象的だった。
(まいどなニュース特約・吉見 健明)