【野球】センバツV投手の後悔 「調子に乗った」岩倉フィーバー 夏は地方大会4回戦で「初芝の本塁打が頭の上を…」

 阪神、ヤクルトでユーティリティープレーヤーとして活躍した山口重幸さん(59)は、東京・岩倉高時代にセンバツ優勝投手となった。のびのび野球を信条に明るいキャラクターで勝ち上がり、決勝で強豪PL学園を破った初出場校は、岩倉フィーバーを巻き起こした。春に続き、夏の甲子園出場、春夏連覇への期待が高まったが、東東京大会の4回戦でチームは夢を絶たれた。

  ◇  ◇

 東京-大阪対決を制した岩倉の凱旋に、地元は大パニックになった。

 「帰りはすごかったですね。やばかったというか。あの光景には報道のすごさを感じましたね。学校に着いたら周りもやばかったです。出発する時は20人ぐらいの感じでしたから」

 1984年4月4日のセンバツ制覇から一夜明け。新幹線で東京駅に着いた山口さんらは、東京駅のホームを埋めた人に驚かされたという。

 混乱を避けて脱出し、一行はバスで学校のある上野へ移動したが、祝勝会が予定されていた上野駅のコンコースは人であふれかえり、駅周辺の沿道を3万5千人のファンが埋め尽くすフィーバーとなっていた。安全を確保することが難しいとの判断で、式典は急きょ中止となり校内で内輪の祝勝会が実施された。

 センバツで勝ち進むにつれて、山口さんらナインは、物おじしない東京の下町ナインは「ひょうきん軍団」などと呼ばれるようになり、人気を集めていたが、覇者となったことで拍車がかかっていた。

 当時は男子校だったが、学校周辺には「岩倉ギャル」と呼ばれる女性ファンらが連日集まるようになっていた。

 「僕なんか、モテるあれじゃないですから。もう、あだ名が“しろくまくん”ですしね」

 色白だった山口さんには、いつしか、かわいいニックネームまでつけられ、岩倉のユニホームを着た熊のぬいぐるみなどが届けられるようになっていた。

 帰京翌日から再開された練習にも変化が起こっていた。授業を終えて上野から保谷市(現西東京市)のグラウンドまで移動する選手らに合わせて、岩倉ギャルらも移動。

 「夏までは毎日100人ぐらい(ファンが)いましたね。学校からグラウンドまでずっとついてきてましたね」

 アイドル雑誌にも取り上げられるなど、岩倉フィーバーは続いた。

 夏の甲子園への出場権を目指しての戦いは7月半ばに始まった。東東京大会で、岩倉は熱い声援を浴びながら順当に勝ち上がっていった。

 だが、四回戦の二松学舎戦で春夏連続出場、春夏連覇の夢は打ち砕かれた。

 主将の宮間選手の3戦連続となる先頭打者アーチで幸先よく試合は動いたが、五回途中に山口さんがつかまり、救援した内田選手も流れを変えられず、逆転を許した。七回には森選手の3ランなどで同点としたが、八回にチームは痛恨の勝ち越しを許した。

 「はっちゃん、初芝のホームランがオレの頭の上を越えていきました。二松学舎に負けちゃったんです」

 右翼守備に就いていた山口さんの頭上を越えた決勝の2ラン。打ったのは、後にロッテで活躍する初芝清選手だった。7-9。壮絶な打撃戦の末の敗戦だった。

 「やっぱりオレの調子がよくなかった。カッカカッカしてね、ダメでしたね。性格的にちょっと子どもでしたね、今考えると。もっと冷静だったら。春からチヤホヤされたしね、調子に乗っちゃった。自分も含めてね」

 エースとしてマウンドを守り切れず途中交代した後悔と反省。栄光のあとに待ち受けていた苦い敗戦。山口さんはサバサバと夢が絶たれた日に思いを巡らせた。(デイリースポーツ・若林みどり)

 ◇山口重幸(やまぐち・しげゆき)1966年6月24日生まれ。東京都出身。岩倉高校(東京)3年時の84年、センバツにエースとして出場し優勝を果たす。84年のドラフト6位で阪神入り。内野手に転向し10年間在籍。95年からヤクルトで2年間プレーした。通算283試合に出場し41安打、1本塁打、15打点、打率・202。引退後は打撃投手、スコアラーなどを務め23年に退団。24年4月から母校の野球部コーチを務める。

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