【野球】「それぐらいの金はな、すぐ取り返せる」鬼寮長の一言で合宿残留 根負けしたV9戦士

 巨人のV9戦士だった吉田孝司さん(78)は、負担の大きい捕手のポジションで20年の現役生活を送った。兵庫・市立神港(現神港橘)から1965年に巨人に入団。その年から栄光のV9はスタートした。若手時代を過ごした合宿で吉田さんが厳しく指導を受けたのが鬼寮長として知られた武宮敏明さんだった。その思い出を聞いた。

  ◇  ◇

 竹刀を手に門限破りの寮生を待ち構え、鉄拳制裁も当たり前-。「鬼寮長」「鬼軍曹」の異名を取った武宮さんにまつわるエピソードは多く語り継がれてきた。

 2010年1月に88歳で亡くなった際には王貞治氏が「厳しい指導のおかげで巨人軍魂が叩き込まれ、今の王貞治がある」、堀内恒夫氏が「厳しさと優しさがあったから200勝して野球生活を完結できた」と感謝の言葉を贈るほど、その存在は大きかった。

 そんな鬼寮長から、吉田さんは人一倍しごかれ、また、かわいがられた。その証拠に「だいたい、みんな4、5年で合宿を出るんだけど、全部で7年もいたんですよ」と濃厚な時間をともに過ごした。

 多摩川沿いの木造2階建てで始まった合宿暮らしは2年で終わり、67年からは、よみうりランドにできた新しい合宿での生活がスタートしていた。入団5年目ごろ、1軍に定着した吉田さんは武宮寮長に満を持して退寮を申し出た。

 「合宿を出たいと武宮さんに伝えたら、分かったと言ってくれて。新居も探して不動産屋さんに手付けの10万円も払って、明日引っ越しします、お世話になりましたと、武宮さんにあいさつに行ったんです」

 合宿で過ごす最後の夜、寮長から夕食の誘いを受けた。

 「メシを一緒に食おうと言われて、お酒を一緒に飲んで話をしてたら、『ほんとに合宿を出るのか?』と。『おまえのことを思うと、まだまだ合宿でやった方がいいぞ、どうなんだ?』ってくるわけですよ。かわいがってくれてるのは分かるんだけど、『いや、もう出たいです』と断って。で、また話をする。そしたら『まだ出たいのか?』と」

 お酒を酌み交わしながら、同じやり取りは何度も何度も続いた。

 ついにしびれを切らした寮長から「どうなんだよ、おまえ、これだけ言ってもまだ出たいのか」と翻意を迫られた吉田さんは、とっておきの反論材料を口にした。

 「『武宮さん、もう手付金を払ってるので』って言ったんです」

 寮長は一枚上手だった。

 「『それぐらいの金はな、すぐ取り返せる』と言われて。最後は負けですよ。分かりましたと言いました」

 寮長の説得に根負けして合宿残留を決めた。

 引っ越しが決まっていたため部屋はなくなっていた。すると寮長は吉田さんに「おまえの好きな部屋へ行け、そいつに俺が言うからって。で、しょうがないから、山下司(内野手)っていう後輩の部屋に行ったんです」

 部屋にベッドは1つしかなかった。

 「僕がベッドで寝て、山下が下でね。そういう生活でした」

 寮長の粘り腰の説得、突然押しかけてきた先輩にベッドを占領され、床で寝ることになった後輩。おかしな光景を思い出した吉田さんは大笑いした。

 もちろん、厳しい指導も受けた。捕手だった武宮さんはコーチも兼任しており、吉田さんは鍛え上げられたという。

 「ノックもよくやってくれたんです。特守を毎日のように、1時間も1時間半も。自分がコーチになった時にノックがしんどいと分かったんですよ。僕のためにあんなにノックをよくやってくれたなあと。当時はいじめられたと思ってたけど、僕のためにやってくれてたから」

 他の寮生たちと同じように吉田さんの口から発せられるのも、やはり、感謝だった。

 「現役を20年もよくやらせてもらったな、と思ってね。これもやっぱり、武宮さんが厳しかったけど、やってくれたから」

 しみじみとした口調だった。

(デイリースポーツ・若林みどり)

 ◇吉田孝司(よしだ・たかし)1946年6月23日生まれ。兵庫県出身。市立神港(現神港橘)から1965年に巨人に入団。V9時代に2番手捕手として活躍し、入団10年目に正捕手に。84年に在籍20年で現役引退。通算954試合に出場、476安打、42本塁打、打率・235。76年の球宴で巨人の捕手史上初のMVP獲得。巨人でバッテリーコーチ、編成部長などを務め、2012年からDeNAのスカウト部長に就任、26年ぶり日本一の礎を作った。

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