山下智茂氏、箕島・尾藤監督対談【1】

 デイリースポーツ評論家の山下智茂氏(71)=星稜総監督=が高校野球の未来を考える企画の第5弾は、2011年3月に他界した尾藤公・箕島元監督(享年68)の長男で13年から母校箕島を率いる尾藤強監督(46)を訪ねた。1979年夏の甲子園では延長十八回の死闘を演じ、後に甲子園塾初代塾長の公さんから、その要職を山下氏は引き継いだ。山下氏と尾藤監督にとって、影響力が大きかった公さんの存在。2人の思い出話は尽きることがなかった。

  ◇  ◇

 山下智茂氏(以下、山下)「『特急くろしお』に乗るとワクワク感と緊張感が今も続いているんだよね。もう40年くらい前かな。初めて来た時と同じ。尾藤公監督はどんな人か、練習試合でどんな戦いができるか、ワクワクしてまるで恋人に会いにいく感じだった。東(裕司)投手で優勝した(1977年春)の1年前だったね。そこら辺に漁師の人たちがいっぱいいて盛り上がっていた」

 尾藤強監督(以下、尾藤)「口が悪くてね(苦笑)。(甲子園に出ると)漁が全部ストップして町が動いてない状態。ええ時代でした。今はサラリーマンが増えましたが、当時はミカンの農家か魚獲りに行っているか。よければ称賛してくれるけど悪かったらボロカス言われる(笑)。今も試合中はここ(監督室の前)へ座って並ぶんで、僕の悪口が始まる。阪神ファンみたい。みんなが評論家で監督」

 -親子で箕島も。

 尾藤「多いですね」

 -最初、尾藤公さんを訪ねた経緯は?

 山下「北陽の松岡先生と興国の村井先生のところに行ったら、ダメダメここへ行けと言われて。お前によく似た性格のやつがおるから行ってこいと。村井さんと松岡さんは冷静に判断するタイプで2人はちょっと似ている。僕らはどっちも燃えるタイプでおもしろいから一回行ってこいと。それで、東という左投手がいるからこの子の時に来たらどうやと言われて行った。彼は定時制で、まだ来ないからちょっと待っといてと言われたね」

 尾藤「東さんは昼間は自動車工場で働いて夕方練習して夜は授業でした」

 山下「その投手で春優勝したね。細い子だった。あの当時は、どこでもみんなすごかった。スパルタでガンガンいく。それで甲子園塾が始まって(尾藤公さんが)山下、オレらが失敗したことを若いやつに教えようと言ってね。最初に暴力問題。こういう失敗したよ、こういうことしたらアカンよって。尾藤さんの遺言がある。高校野球の指導者は畑、農家と同じ、種をまいて草をとってと、そういうことを体を動かしてやらないといけない」

 -公さんと監督と選手だった時は厳しかった。

 尾藤「(うなずく)」

 山下「自分の子は普通以上にやる。毎日30発。人の子はたたけない。なんでそんなにたたくんやとOBが言ったり、なんでレギュラー使わんのかと言われる。うまいのに使わん。うちも(長男の智将氏=元星稜野球部部長)は、ほんとは4か6だけど背番号16が定番だった」

 尾藤「一緒だったら落とされる」

 -尾藤監督はエースだった。

 山下「昔、お父さんから聞いたことがある。大事な試合で打たれたら交代と言って(打たれて)代えてしまった。そのまま試合に出しておけば勝っていたのに、と。あいつに悪い。それだけが悔いが残ると言っていた」

 尾藤「2年の夏の決勝です。七回表にマウンド行く時に、一人でもランナー出したら代えるぞと。それまで尾藤と言っていたのに、強って言った。僕はハッパをかけられてると思ったけど、先頭打者にヒット打たれて交代。九回表にひっくり返されたんです」

 山下「あんまりそういうことは言わんのにね。悔いが残っていたんでしょう。ガンだともまったく言わず。甲子園塾で横に寝ているのに言わなかった。山下頼むぞ、今日はオレはノック打たんから、頼むぞとだけ」

 尾藤「野球に支えられていた。(甲子園塾で)山下先生に会えるから、その日までに調整して行くんやというのが生きる力だった。和歌山大会でもあかんと医者に言われても抜け出して行って、母はもう知らんと言っていた。パジャマみたいな格好でタクシーで紀三井寺へ行く。東さんが和歌山放送の解説やってて、そんな格好ではあきませんと服を買いに行って着せてくれたこともある」

 山下「どこに行っても白いズックとブレザーだった。結婚式でもズックだった。日本代表で海外でもそう。どこでも関係なし」

 尾藤「不幸ごとだけでしたね、革靴履いているのは。ズックはマジックテープのね」

 山下「あんな豪傑、今はおらんね」

 尾藤「無頓着でしたね」

 山下「入院中に相談に行ったことがある。(監督の誘いが)6チームから来て、どうしようかと。病院に行ったら面会謝絶だったけど、病院の人が奥さんに電話してくれて。部屋に入ったら酸素マスクしていて、テレビで和歌山大会を見ていた。どうしたらいいですか?と聞いたら、決まっとるやろ。オレは箕島の尾藤で死ぬから、お前は星稜の山下で死ねと。鳥肌が立った。こんなこと言える人はいない。それで決断した。10日くらいしたら、オレはお前が来たら治ってな、グラウンドにおるぞと言う。音が聞こえるかと。後でカンカンと音がした」

 -生徒の帰ってくる場所になれとも。

 山下「お前、何万人教えた?生徒は2万人くらい、部員は1000人くらい。そいつらはどこへ帰ってくるんや?グラウンドじゃねえか?と言われた。普段はきついことを言わないけど、あの時だけは違った。後は、甲子園塾を頼むぞと、何度も何度も電話がかかってきた。責任を感じて、オレでいいんですか?と聞くと、お前に頼むんじゃいと」(2に続く)

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