大河「べらぼう」田沼意知殺害事件でただ1人称賛された人物がいた 識者語る
大河ドラマ「べらぼう」第28回は「佐野世直大明神」。天明4年(1784)3月24日、江戸城中において、旗本の佐野政言が若年寄・田沼意知(老中・田沼意次の子)に斬りかかり、意知は同月26日に死亡するという衝撃的事件が起こります。政言の刃傷理由は「乱心」とされ、切腹を命じられました。その他の佐野家の者は処罰の対象にはなりませんでした。
ところが、刃傷事件に居合わせた人々は咎めの対象となるのです。事件は白昼、衆人環視のもとで起こりました。よって政言を誰かが上手く取り押さえることができれば、意知は致命傷を負うことなく助かったのではないかと考えられたのです。意知は事件当日、城中から退出する時、同僚(若年寄)の酒井忠休・太田資愛と連れ立って歩いていました。この2人には10代将軍・徳川家治の勘気が伝えられた上で、将軍への目通りが禁じられます。目付の松平恒隆と跡部良久は「中の間」の隅という事件現場に最も近い場所にいました。退出する若年寄らを見送るためです。両人より少し離れた場所にいた大目付・松平忠郷が現場に駆け付けて佐野政言を組み伏せたことから、両人は責任を問われることになります。忠郷より近くにいたのだから、いち早く駆け付けて政言を取り押さえることができたはずだと考えられたのです。行動の鈍さにより意知が致命傷を負ったとして、両人は罷免されてしまうのでした。
「中の間」にいた他の目付(井上正在・安藤惟徳・末吉利隆)も行動の鈍さを咎められますが、謹慎で済みました。松平恒隆と跡部良久より少し離れた場所にいたからです。佐野政言と同役で当日、新番所に詰めていた者も罷免されます。こうして見ていくと、事件当日にどこに居たかが運命の分かれ目。松平恒隆と跡部良久はまことに不運と言うべきでしょう。事件の際の行動を称賛されたのは、前述の大目付・松平忠郷ただ1人。70歳という高齢にもかかわらず、いち早く駆け付けて政言を組み伏せたことにより2百石の加増を受けたのでした。
(主要参考・引用文献一覧)
・藤田覚『田沼意次』(ミネルヴァ書房、2007年)
(歴史学者・濱田 浩一郎)
