【平成物語11】地下鉄サリン事件“戦場”のような病院 治療した医師の目は真っ赤に…

 「平成7(1995)年3月20日 地下鉄サリン事件」

 表題は、“負の平成史”で最大の事件だろう。日本中が震えたテロ…。デイリースポーツの医療コラムニスト、谷光利昭(たにみつ内科院長)は24年前、病院に次々と運ばれてくる被害者を治療した経験を持つ。貴重な証言を聞いた。

  ◇   ◇

 95年3月20日、医師2年目だった谷光は東京・三井記念病院で外科医として勤務していた。診察が始まる午前9時の少し前、突然、内科医を招集する全館コールが鳴り響いた。続いて麻酔医、ついには外科医も呼ばれた。尋常でない事態が起こっている-。コールと同時に、谷光は7階の医局を飛び出し、1階まで一気に階段をかけ下りた。

 救急外来と待合室は凄惨(せいさん)な状況だった。何かわからないものに苦しむ患者でフロアは埋まっていた。映画の“戦場”のような光景を目の前にした谷光は一瞬、立ち尽くした。

 うずくまる人、嘔吐する人、毛布にくるまり震えている人、意識がない人…症状は様々だった。谷光は先輩医師の指示を受け、重症度が高い患者を優先に点滴したり、気管挿管して人工呼吸器につないだり、中心静脈の確保をして循環動態の安定をはかったり…ひたすら手を動かした。できるのは対症療法のみ。目の前にいる人に、ただ可能な限りの処置をしていくしかなかった。

 病院の日常業務は全てストップした。医師、看護師、事務員、病院全体で治療に臨んだ。当日の外来は中止となり、麻酔がかかっていた患者も覚醒させ、手術も延期となった。小児科病棟にいたほとんどの患者は退院という形にしてもらい、生死の間(はざま)にあるような重症の患者を集中治療室にあげた。

 原因が「サリン」だと完全に判明したのは、谷光の記憶によると午後2時以降。それから解毒剤であるPAMを重症の患者に投与したが、残念ながら亡くなられた人もいたはずだという。

 途中食事を摂ったか、休憩をしたか、何を話していたかなど、谷光は病院での詳細を覚えていない。帰宅したのは、夜中の2時。すると、玄関で待ち構えていた妻に「あなた、目が…」と、指摘された。鏡を見た。赤い…真っ赤だ。救命処置した医師は微量ながらサリンを吸入しており、その影響が目の激しい充血という形で現れた。化学兵器の恐ろしさを身をもって知った。

 改元まで1年を切った昨年7月、麻原彰晃(本名・松本智津夫)らオウム真理教の幹部13人が死刑執行された。事件としてのひと区切りはついたかに見える。

 「もう24年なんやね。けど、後遺症に悩む人、ずっと辛い思いで過ごされている人はまだたくさんおられるよ。“解決”なんて…」

 谷光は目を閉じて、続くはずの言葉を切った。=敬称略

 (構成=デイリースポーツ・冨嶋幹生)

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