最多勝投手の元広島・高橋里志さんが死去 引退後はカウンター越しに酔客と野球談議
広島などで活躍した高橋里志さんが1月31日に肺がんのため72歳で亡くなったことが3日、明らかになった。現役引退後は広島市内でスナック「メンバーズ高橋」のマスターをしながら広島カープOB会の副会長としても活躍していた。
今はコロナ禍の影響で閑散とする広島最大の繁華街・流川近くのビル5階に高橋さんがマスターを務めていた「メンバーズ高橋」はあった。長年、午後7時の開店とともにカウンターの中に立ち、お客とカープの戦いや昔話など野球談議に花を咲かせていた。
「広島での思い出は20勝したこと。初優勝した翌年から3年間頑張った。チームが優勝したときもおったんだけど、貢献してないんよ」
広島時代の1977年に最多勝、日本ハム時代の82年には最優秀防御率のタイトルを獲得した右腕は、カウンターの向こうで豪快に笑っていた。
南海(現ソフトバンク)5年間で1勝に終わり、1年の浪人生活を経て74年にカープに入団。75年の初優勝時は1軍登板がなく、翌年の76年から頭角を表し、77年に20勝を挙げ最多勝のタイトルを獲得した。78年も2年連続の2桁勝利となる10勝を挙げている。
しかし、4年ぶりに優勝した79年には18試合に先発したものの3勝しか挙げられず、日本シリーズでの登板はなかった。連覇した80年は0勝に終わりオフには佐伯和司との交換トレードで日本ハムに移籍した。
81年は主に中継ぎとして活躍し優勝に初めて貢献した。翌年の82年には先発、中継ぎのフル回転で防御率1・84、最優秀防御率のタイトルを手にした。
最後は近鉄に移籍し、ユニホームを脱いだ。引退後は「家もあったから。水が合ったんでしょうね」と広島に戻ってきた。カープ時代を振り返り「自分が投げているときに優勝したかったんですがねえ…」と残念がってはいたが、「まあ、南海をクビになって上(1軍)で投げられるだけで良かったんですがね」と思い出を語っていた。
スナックのマスターを務める傍ら、一時は高校野球の指導も行っていた。広島カープOB会副会長としても活躍。まだまだ広島でやり残したことがあったに違いない。