崩壊から開けたカープ投手王国への道 今年の状況とかぶる1977年の大不振

精密機械のような制球力でエースとして君臨した北別府学
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 元中国新聞記者でカープ取材に30年以上携わった永山貞義氏(71)がデイリースポーツで執筆するコラム「野球爺のよもやま話」。広島商、法大でプレーした自身の経験や豊富な取材歴からカープや高校野球などをテーマに健筆を振るいます。

  ◇  ◇

 短くも長く感じた今年のカープの戦いが終わった。5位にとどまったその成績に、ヤジ馬から総合的、俯瞰(ふかん)的に見た感想を一言述べさせていただくと、「やはり」である。開幕前から懸念された投手陣が「やはり」崩れて、早々とKOされたシーズン。その有り様は、佐々岡真司監督が就任1年目に見舞われたコロナ禍での惨劇として、記憶されることだろう。

 この道はいつか来た道だと思った。真っ先に頭に浮かんだのは1977年。初優勝の歓喜からわずか2年後に、5位へと転落した道である。投手陣が崩壊し、チーム防御率は球団創設時の50年に刻んだ5・20に次ぐワースト2の4・83まで下落。私にとってカープの取材に関わった三十数年の中で、最も衝撃を受けた惨状として記憶している。

 前触れはあった。前年の初優勝の立役者、外木場義郎が右肩痛で10勝にとどまると、大黒柱を欠いた投手陣は乱れ、チーム防御率は2・96から4・02と23年ぶりの4点台まで一気に悪化。この打開策として古葉竹識監督が打った手が球団史上最大のトレードの敢行だった。

 まず日本ハムとは佐伯和司、宮本幸信、久保俊巳を出して、新美敏、皆川康夫、鵜飼克雄、内田順三を獲得。南海とは金城基泰と松原明夫(後の福士敬章)を交換した。佐伯、金城、宮本といえば、初優勝の原動力となった投手。そんな功労者をあえて放出したのは、新人王の新美と皆川、将来性を見込んだ松原の右腕に投手陣再建を託したからである。

 しかし、現実は厳しく、この3人で計9勝5セーブ。「両輪で35勝」とそろばんをはじいた外木場が故障で1勝、前年の最多勝の池谷公二郎も11勝しか稼げず、20勝をマークした高橋里志の望外の働きで、辛うじて最下位だけは免れたのだった。

 当時、その顔触れからして、前途は多難に見えた。ところが世の中は、時にピンチがチャンスに転じる成り行きもある。この年が典型的なそれで、投手が駒不足だったからこそ、使われた若手も多かった。具体的には2年目の北別府学が5勝、同期の小林誠二が初勝利、新人の大野豊、山根和夫がデビューしたのも同年である。

 これらの小さな鼓動はその後、それぞれが大きく躍動し、79、80、84、86、91年の5度のリーグ優勝や3度の日本一に結びついている。こうして77年の惨状を振り返ると、空前絶後ともいえる投手陣の崩壊が皮肉にも、「投手王国」を築く礎になったといえよう。

 今年のカープを振り返ると、77年と同様、「弱体投手陣」を見越して補強したDJ・ジョンソンとスコットが使えず、両輪の大瀬良大地とジョンソンも故障と不調で、チーム防御率は4点台に下落している。半面、「弱投」によって先発要員となった遠藤淳志が台頭。登用された塹江敦哉、ケムナ誠、島内颯太郎も球速150キロ台のパワーを見せ、先行きに希望を抱かせた。さらに1軍デビューを果たした若手は10人を数えるなど、下からの鼓動も大いに聞こえている。

 期待通りの怪腕だった森下暢仁やドラフト1位指名の栗林良吏らを含めて、これらが「投手王国の再建」、ひいては「黄金時代の再来」への担い手になれるのかどうか。「歴史は繰り返す」という。そのことわざが「吉」と出ることを願って、来春を心待ちにしたい。

 永山貞義(ながやま・さだよし) 1949年2月、広島県海田町生まれ。広島商高-法大と進んだ後、72年、中国新聞社に入社。カープには初優勝した75年夏から30年以上関わり、コラムの「球炎」は通算19年担当。運動部長を経て編集委員。現在は契約社員の囲碁担当で地元大会の観戦記などを書いている。広島商高時代の66年、夏の甲子園大会に3番打者として出場。優勝候補に挙げられたが、1回戦で桐生(群馬)に敗れた。カープ監督を務めた故・三村敏之氏は同期。元阪神の山本和行氏は一つ下でエースだった。

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