甲子園黒土物語…初めて持ち帰ったのは

 2013年春、済美(愛媛)に敗れ、甲子園の土を持ち帰る済々黌(熊本)のナイン
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 21日に第87回選抜高校野球大会が開幕する甲子園。頂点に立てるのは、春も夏もわずか1校だけだ。夢破れた敗者たちは、数多くの思い出とともに「甲子園の土」を持ち帰る。現在では当然のようになった球児たちの恒例行事は、いつ始まったのか。球児たちが持ち帰った土はその後どうなったのか-。「甲子園の土」にまつわる物語を追った。

 「甲子園の土」を持ち帰っていたことは、北九州市の自宅に届いた手紙で知った。夏3連覇を逃した1949年夏。準々決勝で倉敷工(岡山)に敗れた小倉(福岡)のエース、福嶋一雄(84)は「杯に1杯ほど」の土をユニホームのズボンのポケットから見つけた。

 大会審判副委員長からの速達には「君のポケットに大切なものが入っている」とあった。48年夏は全5試合を完封した福嶋だが、最上級生だったこの年は右肘を故障。最後は直球しか投げられずに敗れた。「甲子園を去りがたい思いだった」。無意識のうちに足元の土を手にしたのだという。

 このエピソードから福嶋が「甲子園の土を最初に持ち帰った球児」という説が生まれた。ただ、本人は「土を拾ったことは覚えていないし、私が(持ち帰った)第1号かどうかということも知らない。そのことについては肯定も否定もしませんよ」と穏やかに笑う。

 「持ち帰り第1号」は、37年夏に準優勝した熊本工の川上哲治という説もある。巨人でも選手や監督として一時代を築き、一昨年に93歳で世を去った川上にとって、最後の甲子園だった37年は2度目の夏準優勝。その時に「私は記念に甲子園の土を袋に入れて持ち帰り、熊本工のマウンドにまいた」(『不滅の高校野球 上』松尾俊治著、ベースボール・マガジン社)と語っている。

 阪神甲子園球場も「川上さんが第1号と聞いている」とする。その一方で母校の熊本工には具体的なエピソードは伝わっていない。同校のOB会関係者や熊本在住の川上のおいも「聞いたことがありません」と口をそろえる。「川上哲治記念球場」にゆかりの品を展示する故郷の熊本県人吉市の関係者にも詳しいことは伝わっていない。

 川上と福嶋に共通するのは「他にもいる」としていることだ。福嶋は「当時は甲子園の土のことで、今みたいに騒ぐことはなかった。私が『第1号』といわれるのは、グラウンドで直接ポケットに入れたということなのでしょう」と言うと、次の言葉を続けた。

 「宿舎でスパイクなどに付いた土を落とし、それを紙などに包んで持ち帰る。(自身の)最後の大会で優勝できなかったときに、みんなこっそりと。そういうのが『第1号』なんじゃないでしょうか。昔はそういうことがあったんですよ」

 川上が土をまいた熊本工のグラウンドからは、多くの名選手が育った。福嶋は自宅のゴムの木の植木鉢に土を入れた。「ゴムの木を見ると、甲子園や猛練習に耐えたことを思い出して力になった」。ゴムの木は植え替えを重ね、今も緑の葉を茂らせている。

 福嶋が甲子園を去った9年後の58年夏。甲子園の土が海に捨てられるという出来事があった。米統治下の沖縄から初めて甲子園の土を踏んだ首里は、敦賀(福井)に0-3で惜敗。本土のチームと同じように土を持ち帰ったが、植物検疫法に抵触するとして海に捨てられた。このことは全国に反響を呼び、高校には甲子園の土で作った楽焼の皿などが贈られ、日本航空の客室乗務員、近藤充子(当時23)からは甲子園の小石が届いた。

 58年9月6日付の琉球新報は、仲宗根弘主将の言葉を紹介している。「記念にとポジションの近くからとってきた土だったが法に違反するということであきらめていた。沖縄の海で捨てられたのはつらかった。だから近藤さんの好意はいつまでも忘れない」。小石は同校の甲子園出場記念碑の「友愛の碑」に埋め込まれた。

 甲子園の土は、鹿児島産などの黒土と中国産の砂をミックスしたもの。風で飛ばされたり、雨で流されたりするため、昨年は4トントラック4台分が補充された。球児が持ち帰るのは、そのうちのごく一部だが、これからも多くのドラマの「証人」になることだろう。

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