北別府学さん永眠、半年 広美夫人「主人との思い出話が日課」 広島黄金期支えたド直球人生、闘病生活3年半を回顧

 カープ一色の故・北別府学さんの祭壇=広島市中区・サンセルモ玉泉院 中央会館、2023年6月19日
 退院後、63歳の誕生日を祝う北別府さんと広美夫人。自宅には座右の銘である「不動心」の額も(家族提供)
 きれいな投球フォームと精密なコントロールで通算213勝を挙げた北別府学さん
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 広島に北別府学という男がいた。頑固で無骨で融通がきかない、ぼっけもん。負けず嫌いで照れくさがりな九州男児は変化球を操りながらもド直球に生き、決して逃げず己を曲げず、生涯真っ向勝負を貫いた。20世紀最後の200勝投手。2023年6月16日、白血病にて永眠。65歳。デイリースポーツ紙面では、12、1月の月曜から金曜日まで彼が歩んだ愚直で奔放な野球人生を追悼連載の形で振り返ります。

  ◇  ◇

 北別府が亡くなって半年になるが、いまだに自宅を訪ねてくる人は多く、線香の煙が絶えることはない。手を合わせる人には縁者もいればファンもいる。

 妻の広美は「主人との思い出話をここでしゃべるのが日課になってます」と言う。一人ひとりに時間をかけて丁寧に応接する。それが支えてもらった人たちへのお返しになると思っている。

 仏間で笑いかける夫の遺影を見ながら妻が言った。

 「この10年ほどは新婚のように楽しかったんです。2人でご飯を食べに行きましたし。夫婦とは、何でもしゃべってこんなにも楽しいものかと…それまでは本音でしゃべれてなかったですから」

 夫婦でともに歩んだ41年。妻は夫を「不快な気持ちにさせないよう」常に心を配り、献身的に支えた。現役時代も引退してからも。ようやく気を使わず話せるようになったと思ったら、夫は急ぐようにして旅立った。

 長い道のりで楽しかったのは10年-。

 生前、北別府は自省の意味を込めるようにして、しみじみと語ったことがある。

 「振り返ってみるとね。心に思っていても口にできない性分だったけど、今は心の底からありがたいと思ってますよ」

 成人T細胞白血病との闘いが2年目に入った2021年の開幕前だった。それは家族に対する懺悔の言葉のようにも聞こえた。

 闘病生活3年半。痛い、苦しいとは一度も言わず、ただひたすら解説現場への復帰を頼りに頑張った。だが、昨年末には移植後の副作用が全身に達し、脳の萎縮が始まった。年が明けると急速に悪化。会話は減り眠ることが増えていった。

 北別府は広島の黄金時代を支える大黒柱だった。1976年に宮崎の都城農高からドラフト1位で入団。球速は140キロに満たなかったが、人一倍の練習量と向こう意気の強さで力の世界を生き抜いた。

 広島市の中心部が見下ろせる小高い住宅地に構えた自宅。応接間には「不動心」と揮毫された書が額に納まり飾られている。動揺しない強い精神力。それは川上哲治の座右の銘でもあった。

 「これこそ投手の自分に必要な言葉」

 そう思い、いつしか色紙にこの言葉を添えて書くようになった。

 子どものころから気が強かったが、それだけでは生きていけないことも分かっていた。大切なのは「逃げない強い気持ちだ」と自分に言い聞かせた。

 チームのために勝つ。自身の成績が上がれば家族の暮らしも楽になる。だから勝つ。勝つための努力もまた怠らなかった。

 相手球団選手との接触は、「親しくなると厳しいボールが投げられなくなる」という理由で極力避けた。死球も辞さないケンカ腰の投球スタイルは、繊細な性格の裏返しでもあった。

 ロッカールームの中でも余計な会話は控えた。

 「ベラベラしゃべると気が抜けてしまう。すべてにおいて野球優先、ピッチング優先だった。一度でも気持ちが抜けると、シーズンが終わってしまうような恐怖感があった」

 野球人北別府には周囲に人を寄せ付けない雰囲気があった。気を緩めない。登板に集中したい。その張り詰めた空気は家族にも伝わった。

 夜、子どもがグズり出すと、広美が家の外へ連れ出し、車の中で泣き止むのを待った。

 「負けたら大変で、パパが帰ると家が凍りついてました」

 自宅から望むことができた当時の広島市民球場。ナイター照明の灯りが消えるのが怖かった。

 勝った日は大勢の人を自宅へ集めて快哉を叫び、しこたま飲む。シーズンオフは自分の好きなことをした。「それがエースの仕事」と理解はしても、広美に心の休まる暇はなかった。「野球はまったく分からなかった」が、夫の体の手入れのためにマッサージの施術まで習った。

 そんな生活を送るうちにこう思えてきた。

 「この人は仕事の面では尊敬できても、人としてどこか欠落しているところがあるんじゃないか」

 同時に広美はこうも思った。

 「主人は野球と同じく私生活でも“針の穴を通す”ように細かいんです。大ざっぱな性格の私は馬の耳に念仏タイプで、お茶の温度も適当。もっと気がつく性格なら、主人もイライラせずにすんだのでしょうね」

 ある日、子ども3人を連れてプールに行った。みんなが喜んでいた様子が忘れられない。北別府の家族サービスはそれほど珍しかった。

 そんな広美が「根本的に人が変わり、これで主人と一緒に歩いていける」と確信する出来事があった。それは北別府が現役を退いて遥かのちのことだった。(敬称略)

 ◇北別府 学(きたべっぷ・まなぶ)1957年7月12日生まれ。鹿児島県出身。現役時代は右投げ右打ちの投手。都城農から75年度ドラフト1位で広島入団。プロ3年目の78年に10勝をマーク。以後、抜群の制球力を生かし、広島のエースとして11年連続2桁勝利を記録。79年に17勝を挙げ、チームは初の日本一。82年には開幕11連勝を含む初の20勝で最多勝と沢村賞。86年は最多勝、最優秀防御率、最優秀選手でリーグ優勝に貢献。2回目の沢村賞も受賞した。

 92年に球団初の200勝を達成。最高勝率3回、ベストナイン2回、ゴールデングラブ賞1回。94年の現役引退後は2001~04年に広島1軍投手コーチを務めた。12年野球殿堂入り。

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