カープを支え58年…名トレーナー福永さんが勇退 “鉄人”危機も見守った

58年間のトレーナー生活に終止符を打つ福永さん
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 広島カープで58年間トレーナーを務めた福永富雄さん(78)が今年12月末で勇退する。1963(昭和38)年に入団。トレーナーの先駆者としてチームを縁の下で支え、9度のリーグ優勝、3度の日本一もすべて見てきた。初優勝の感激や鉄人・衣笠祥雄さん(故人)とのエピソードなど思い出は尽きない。

 11月11日にマツダスタジアムで行われたシーズン最終戦。練習前に、選手会長の田中広から花束と選手のサインが寄せ書きされたユニホームが贈られた。ナイン全員と記念撮影も行い、「こういう場を設けてもらい、びっくりした。ユニホームは大事に自宅に飾ってます」と感謝した。

 山口県出身の福永さんは高校卒業後、専門学校で柔道整復師の資格を取得。兄の重雄さんがカープのトレーナーをしていたことが縁で63年に入団した。肩や肘をケアするアイシングを米国からいち早く日本球界に持ち込んだことでも知られ、98年には日本プロ野球トレーナー協会の会長も務めた。チーム内では「先生」と呼ばれ、選手やスタッフ、担当記者からも慕われた。

 トレーナー一筋で歩み続けた58年間。「決して早かったとは思わないけど、本当にいろんなことがあった」。9度のリーグ優勝はすべて見てきた。中でも一番の思い出は75年の初優勝。「優勝が決まった瞬間は我を忘れて選手よりも早くグラウンドに飛び出してしまった。私にとっては大失敗」と苦笑する。ホテルでのビールかけを終えて部屋に戻ろうとすると、選手の間から「もう一人、まだ胴上げしていない人がいる」と声が上がり、エレベーターホールの前で胴上げされた。部屋に戻ると、込み上げる感情を抑えながらトレーナーの世界に導いてくれた兄に電話で優勝を報告した。

 68年の球団初のAクラス入りも忘れられない。「その年は兄に代わって私が初めて1軍に帯同したシーズンだった。Aクラス入りを決めた試合の後、宿舎の旅館で選手と一緒にどんちゃん騒ぎしたのは今もいい思い出」

 鉄人・衣笠さんの連続試合出場日本記録(2215試合)の達成も支えた。79年8月1日の巨人戦(広島)で衣笠さんは西本から左肩に死球を受けて退場した。試合後、病院に駆けつけた福永さんは医師から亀裂骨折していることを告げられた。「自宅に戻った後もショックで食事がのどを通らなかった。これで連続出場試合もストップするかと思うと涙が出た」

 しかし、翌日、球場に行くと衣笠さんがいて驚くべきことを口にした。「朝、目が覚めたら上がらないはずの左腕が頭の上にあった。腕が動くんです」。古葉監督はその言葉に代打での起用を決断。3球三振に倒れたものの、3度のフルスイングは今も伝説として語り継がれている。福永さんは「あの状態でまさか試合に出るとは。魂のフルスイングだった」と振り返る。

 入団時は1軍と2軍に一人ずつしかいなかったトレーナーも徐々に増え、現在のトレーナー部は15人の大所帯。福永さんはトレーナー部長を長く務め、13年からは同部のアドバイザーとして選手や若手トレーナーの相談相手になってきた。「今の若い子たちは本当に優秀。私がアドバイスするようなことはなにもない」と目を細める。一線は退いても今季も試合の時はトレーナー室のテレビで選手の動きに目を凝らした。

 12月末でチームを離れる。「ここまで長く務められたのも、社長(松田元オーナー)をはじめ、歴代の監督や選手たちのおかげ」。今後については「まだ終わったばかりで、どうするかは何も考えてない」と言うが、「カープから離れても選手の体調はずっと気になるでしょうね」。選手に寄り添い、苦楽をともにし、チームに尽くした58年間。カープの歴史に刻まれる通算9度のリーグ優勝と3度の日本一は、福永さんの存在抜きに語ることはできない。(デイリースポーツ・工藤直樹)

 ◆福永富雄(ふくなが・とみお)1942年6月25日生まれ。山口県下松市出身。東洋鍼灸専門学校を卒業後、63年にカープに入団。翌年の東京五輪にトレーナーとして派遣され、プエルトリコやガーナチームをサポート。84、85年にスポーツ医学国際会議に出席。98年には日本プロ野球トレーナー協会会長に就任。広島球団のトレーナー部長などを経て、現在は同部アドバイザー。

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