阪神外国人列伝 62年、バッキーは日本に溶け込み外国人初の沢村賞に

 阪神は2020年、球団史上最多となる外国人選手8人体制でV奪回に挑む。球団創設85周年のメモリアルイヤー。かつてタテジマのユニホームに袖を通した助っ人を年度別で振り返る。1962年はバッキーの登場だ。

 バッキーは62年7月にテスト入団。外国人選手としての特別待遇はなく、遠征先の旅館ではチームメートと同じ部屋で枕を並べた。ハシで日本食を食べ、小さな文化住宅に家族で住んだ。チームにも日本の生活にもすぐになじみ、助っ人球団最多の100勝(80敗)を挙げ、多くの輝かしい記録と共に、球史に名を刻んだ。

 来日1年目の62年は8試合、0勝3敗、防御率4・70だったが、課題の制球力を磨くと、投手陣の柱に成長を遂げていった。63年は8勝(5敗)、64年は29勝9敗、防御率1・89の好成績を収め、最多勝、最優秀防御率のタイトルを獲得した。同年8月には「本当に日本はいい国だ。できればずっと日本で生活したい。それに今年はタイガースの優勝のチャンス。何としても自分の腕でチームの優勝をつかんでみせる」と力強く宣言。言葉通り優勝に貢献し、外国人初の沢村賞に輝いた。

 65年6月28日の巨人戦(甲子園)では無安打無得点試合を達成。デイリースポーツは1面で「やった!バッキー快挙」と偉業をたたえている。

 しかし、68年9月18日の巨人戦(同)で王貞治への2球連続の内角球を巡って起きた荒川博コーチとの乱闘により右手親指を骨折。翌年の69年には近鉄に移籍したが、0勝7敗に終わり、引退した。

 チームは62年に2リーグ分立後初のリーグ優勝。日本シリーズでは東映に敗れた。64年も2年ぶりにリーグ制覇して、日本シリーズに進出したが、南海に3勝4敗。またしても悲願は叶わなかった。

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