神戸の“被災チャンピオン”は人気インストラクターに 高田道場などで指導

高田道場でボクシングのクラスを受け持って20年目になる元日本王者の鈴木敏和=東京・武蔵小山
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 阪神・淡路大震災によってプロボクサー人生を左右された男がいる。元日本スーパーフェザー級王者・鈴木敏和。神戸から東京に拠点を移して今年で20年の節目を迎えた。現在もボクシングエクササイズなどのインストラクターとして多忙な日々を過ごしている。

 1995年1月17日、鈴木は神戸の自宅で被災した。4月に3度目の防衛戦が予定されていたが、会場の兵庫県立文化体育館は避難所となって使えず、後楽園ホール開催の6月12日に延期。所属ジムの神戸拳闘会も閉鎖された。ボクシングどころではなかった。

 自宅近くを走ると、避難物資の置き場で泥棒と間違えられて「コラッ!」と怒鳴られた。給水車の前で並ぶ人たちの横を走り抜けるのもいたたまれず、街灯のない暗闇を走って段差で転んだ。2月末から兵庫・JM加古川ジム、5月は福岡・筑豊ジムで練習した。

 聖地・後楽園に神戸から応援に来る人は少なかった。「東京に行くのが怖い」。同年3月に起きた地下鉄サリン事件の影響だった。挑戦者は早大出身の三谷大和で、後輩やOBら大応援団が陣取った。完全アウェーのリング。鈴木は控室で自問自答した。「チャンピオンとしてやらなあかん義務がある半面、震災で亡くなった人のことを思うと試合をやっていいのか」。気持ちは揺れたが、リングに立つと迷いは消えた。

 最終10回、一転して鈴木コールが場内で沸き起こった。がむしゃらなファイトが東京のボクシングファンの心を打ったのだ。「あの声援はうれしかった。最後は倒されてもいい、玉砕する覚悟でダウンを取れた。燃え尽きた」。判定負けで王座陥落。潔く引退した。

 阪神高速道路の交通管理隊員を経て、98年1月に上京。「ボクシングとエアロビクスをミックスさせればいいものができると思った。ベルトを巻いた人でやっている人はまだいないと聞いたので、東京でチャレンジしたかった」。養成所で勉強し、都内のフィットネスクラブで指導を始めた。格闘家・高田延彦と出会い、99年10月から高田道場でボクシングのクラスを幼児からシニアまで受け持つ。

 「東京で20年。通帳の残高を見る度にため息をつきながら、がむしゃらにコツコツやって気が付いたら周りの人に必要とされていた。よかった」。東急スポーツオアシスでは新宿、恵比寿、青山、武蔵小杉、十条、ゴールドジムでは大塚と大井町、高田道場と計8カ所を休みなく回る。

 拳聖・ピストン堀口の命日でもある10月24日の誕生日で50歳になる。「これからも、がむしゃらに全力で。体を動かすことが好き。お客さんに喜んでもらうことが一番うれしい」。“天職”かと尋ねると、鈴木は迷うことなくうなずいた。(デイリースポーツ・北村泰介)

 ◆鈴木敏和(すずき・としかず)1968年10月24日生まれ、神戸市出身。山梨県の日本航空高校で空手部に入り、全国少年少女実戦空手道大会高3の部で優勝。卒業後、神戸拳闘会でボクシングを始める。88年にデビュー、スーパーフェザー級で全日本新人王に。92年に2度の同級王座挑戦に失敗も、94年1月に王座奪取して2度防衛。戦績24戦18勝(11KO)5敗1分け。

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