【野球】北海道から12球団にかけ続けた電話 2年後のロッテ入り 経理部からアナウンス担当へ 行動力で夢をかなえた名物アナ・谷保さん
行動力で道を切り開いた人だ。「サブロ~~~~~」に代表される特徴ある選手紹介や試合進行で、谷保恵美さん(59)はロッテの名物場内アナウンス担当としてファンから愛された。33年のアナウンス人生はいかにして始まったのか。故郷の北海道から狭き門だったプロ野球球団に入社し、あこがれ続けた職業に就くことができた経緯とは。今年9月から千葉県市川市でカフェを営む谷保さんが当時を振り返った。
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子どものころから野球は身近な存在だった。父親の直政さんは高校野球の指導者で監督として甲子園に出場した経験もあり、日常的に家族でナイター中継を見ていた。
中学生になると高校野球に夢中になり、甲子園期間中は部屋に閉じこもってばかりいたという。「勉強もしないで朝8時ぐらいから、高校野球のスコアを1日4試合つけてましたね」
野球が好きすぎる女子中学生に周囲からは「そんなことをして何になるの」と心配の声をかけられたというが、「結局、それが仕事になりましたね。フフッ」と楽しげに笑う。スコアをつけながら試合状況を確認して場内アナウンスをするのはロッテ時代の谷保さんのルーティンとなったのだから、当時の経験は大いに役立っている。
高校、大学では野球部のマネジャーを務め、大学時代に場内アナウンスを担当したことから谷保さんは“天職”となるプロ野球での仕事に思いを募らせるようになった。
ただ、狭き門ではあった。
「今はBCリーグだったり、いろいろな球団ができたりしましたけど、当時はお仕事としては、12球団のプロ野球しかなかった。私は地元が北海道でしたけどファイターズもそのころはなかったですから」
問い合わせの手段は電話のみ。プロ野球12球団に募集がないかと電話をかけ続けた。高校野球が大好きだったことから、甲子園球場での場内アナウンス担当も志したが、関西出身者以外の採用はなかったという。「イントネーションとか、アクセントが本物じゃないとダメなんでしょうね」
北海道から電話をかけ続けた執念は2年後に実る。オリオンズ時代のロッテの採用試験へ門戸が開かれ、谷保さんは90年に球団職員になり経理部に配属された。
「なんでもやります、と言いましたね。経理も素人だったんですけど。若かったですよね」。当時の自分の行動力、突破力を懐かしむ。
熱い思いは届き、欠員が出たことから91年にあこがれてきた場内アナウンスの仕事に就くことができた。
「この仕事がやりたくて球団に入ったんですが、一番緊張したのは初めて2軍の教育リーグを担当した試合。その時のことはちょっと忘れられないですね」
そう振り返るのは91年3月のロッテ浦和球場での2軍戦。マイクの前に座って体が固まった。
「カラオケのマイクみたいな、スイッチを入れるタイプのマイクだったんですけど、そのスイッチを入れる勇気が出てこなかった。最初の第一声を出すまでの緊張感がすごかった」
覚悟を決めてスイッチを入れてデビュー戦は始まったが、新人アナウンス担当には酷な展開が待っていた。
「交代が多い試合だったんです。もう一気に、8人か9人の選手が代わったんですよ。それを間違わずに全部言い終えられたら、隣にいらした公式記録員さんが“すごいです!よくやったね”って褒めてくださって」
極度の緊張、それを乗り越えての成功体験。谷保さんは場内アナウンス担当としての第一歩を踏み出した。同年の8月には川崎球場で念願の1軍デビューも果たした。
「自分がアナウンスをやり始めたころの試合はすごく記憶がある。挙げきれないくらい、たくさん思い出はありますね」
濃密な日々に思いを巡らせた。
チームは92年から本拠地を千葉に移し「千葉ロッテマリーンズ」として出発。千葉マリンスタジアム(現ZOZOマリンスタジアム)が谷保さんの新たな働き場所となった。(デイリースポーツ・若林みどり)
◇谷保恵美(たにほ・えみ)1966年5月11日生まれ。北海道出身。帯広三条高で野球部マネジャー、札幌大女子短期大時代は札幌大野球部のマネジャーを務める。90年にロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)に入社し、91年から場内アナウンス担当。91年8月9日に1軍デビュー。2022年7月17日に1軍公式戦通算2000試合を達成。23年の本拠地最終戦で2100試合到達。同年限りで33年間務めた場内アナウンス担当を引退し12月に退職。25年9月から千葉県市川市でカフェ「2lipan(トゥリパン)」を営む。





