【野球】廃部→移籍の紆余曲折へて広島入りした小俣さん カープ初優勝の1975年は長嶋巨人との対戦で鮮烈投球

 長嶋茂雄さんの専属広報を長く務めた小俣進さん(74)は、投手として広島、巨人、ロッテなどでプレーした。神奈川・藤沢商(現藤沢翔陵)から社会人野球を経て、ドラフト5位で広島に入団。3度のトレードを経験して13年の現役生活を送った。高校から入部した社会人野球では、いきなりチームの解散という苦境に立たされたが、移籍によってプロ野球への道は開けていった。

  ◇  ◇

 1972年度のドラフトで社会人野球の大昭和製紙から広島に入団し、プロとしての一歩を踏み出した小俣さんだが、そこに至るまでには紆余曲折があった。

 左投げ左打ちに転向して内野手としてプレーしていた小俣さんが投手になったのは、藤沢商2年の秋。「(チームに)左投手がいなくて、速い球が投げられる」という理由からだった。

 1つ上の先輩の加藤譲司投手は68年度のドラフトで2位指名を受けて東映に入団。「身近にそういう人はいたけど、まさか自分がプロにいけるとは思ってなかった」と話す。

 速球を武器に投手として頭角を現した小俣さんは卒業後、地元の川崎市に本拠地を置く社会人野球の日本コロムビアに入った。歴史あるチームはしかし、入部翌年の71年に業績不振により解散する。

 途方に暮れた小俣さんに手を差し伸べてくれたのはチームの先輩だった。

 「大昭和製紙に移籍する先輩がいて、おまえも一緒に行けって言ってくれて、それで移籍できた。そういうところは運があるよね」

 静岡県富士市に拠点があった大昭和製紙は多くのプロ野球選手を輩出していた名門。70年には都市対抗野球で優勝を遂げていた。先輩のツテで移籍した当時もプロ注目の有望選手が在籍しており、小俣さんにとって追い風となった。

 「自分より1年先に2人がプロ入りした。安田猛さんがヤクルトに行って、加藤初さんが西鉄に入ったんだけど、そういう人を見た時に、俺のことも見ていてくれた」

 ドラフト6位でヤクルト入りした安田投手、ドラフト外で西鉄入りした加藤投手はともに1年目にセ、パ両リーグの新人王を獲得する。そんな2人の視察に訪れていた広島の漆畑勝久スカウトの目に、粗削りながら力のある速球を投げ込む左腕はインパクトを与えていた。

 翌年、小俣さんは広島から5位指名された。

 「びっくりだよね。広島は安く獲って育てるっていうチームだったから、そこにうまく引っかかってチャンスをもらったんじゃないかな。コロムビアにいたままだったらダメだったと思う」

 初登板は入団2年目の74年10月5日の中日戦。4番手で登板し3分の2回を1失点。2年目のシーズンはこの1試合で終了した。

 3年目の75年は11試合で起用された。

 「主にワンポイントで使ってもらった。勝ち試合の時は渡辺弘基さんで、負け試合の時は俺だった。やっぱり、左投げでよかったなと思った」

 先輩左腕と役割分担をしながら腕を振ったころを懐かしんだ。

 巨人相手には後楽園で2試合登板した。

 「たいしたイニングは投げてないんだけど、王さんとも対戦してファーストゴロに抑えた。今思えば打たれとけばよかったかな。868本もホームランを打ってるんだから、一本打たれてたら、その話題になるたびに名前が出てたかもしれない」

 5月28日の巨人戦初登板での2回無失点投球をおどけた口調で語ったが、巨人戦に登板した2試合で球威を見せつけたことが、小俣さんの人生に大きな意味を持つことになる。

 75年は広島にとって歴史的なシーズンとなった。4月下旬にルーツ監督が辞任するドタバタがあったが、5月から新監督に就任した古葉竹識氏のもとチームは勝ち星を重ね、10月15日の巨人戦で球団創設26年目にして念願の初優勝を飾った。

 一方、就任1年目の長嶋監督が率いた巨人は屈辱の歴史を刻んだ。球団初の最下位に沈み本拠地・後楽園で広島の歓喜の胴上げを見せつけられたのだった。(デイリースポーツ・若林みどり)

 ◇小俣進(おまた・すすむ)1951年8月18日生まれ。神奈川県出身。藤沢商(現藤沢翔陵)から日本コロムビア、大昭和製紙富士を経て72年度のドラフト5位で広島に入団。巨人で貴重な左の中継ぎとして活躍した。ロッテ時代に初完投初完封勝利をマーク。現役最終年は日本ハムに在籍。プロ通算13年で174試合に登板16勝18敗2セーブ、防御率4・73。引退後はロッテ、巨人の打撃投手を経て、長嶋茂雄監督の専属広報、終身名誉監督付き総務部主任などを務めた。

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