【野球】カープに投手で入団もいきなり左肩故障 秋には野手転向決断 4年目でプロ初打席初安打 吉田さんの7年のプロ生活

 東京・人形町で広島鉄板焼き・お好み焼きの店「さぶろく」を経営する吉田圭さん(41)は、プロ野球・広島のOBだ。帝京高からプロ入りしたサウスポーは、入団してすぐに左肩を痛め、1年目の秋に野手へと転向した。4年目に待望の1軍昇格を果たしプロ初打席で初安打の鮮烈デビューを果たしたが、翌年以降1軍で暴れることはできなかった。7年間のプロ野球時代について聞いた。

  ◇  ◇

 人形町にある自身の店で、吉田さんはユニホームを脱いだ日を静かに振り返った。

 「やっと野球が終わったみたいな感じの方が大きかったですね。いいことばっかりじゃなかったですからね。肩の荷が下りたじゃないですけど」

 2009年11月11日。東京から駆けつけた両親が見守る中、甲子園でトライアウトを受けた。

 「思い出作りですよ。雨が降ってて室内でやりましたね。終わって、親に『辞めるわ』って伝えたら、寂しそうな顔をしてましたね」

 7年前の02年、ドラフト2位で入団した左腕は意気揚々とユニホームに袖を通した。だがキャンプを終えたころ、左肩に異変が起こった。

 「3月か4月でしたね、左肩がなんかおかしいなと思ったら、翌日には上がらなくなって。そこから1年かかりましたね」

 診断名は左肩の「関節唇損傷」。手術は最終的に回避することができたが、キャッチボールもできないストレスを抱えてプロ1年目を過ごし、10月下旬に野手転向が発表された。

 「入団前から投手がダメだったら、野手でと言われてたんです。抵抗はなかった。元々打つ方が好きというのはあったので」

 高校時代から打者としての評価も高かったが、投手として実戦登板の機会がないままでの転向は大きな決断だったに違いない。

 肩に負担をかけないよう、転向後もしばらくは制限された練習が続いた。「ずっとバットを振るか特守を受けるか。木下(富雄2軍)監督には厳しくしてもらいましたね。2年目のキャンプで毎日ノックを打ってくれました」

 そんな期間を経てブラウン監督初年度の06年、プロ4年目で1軍切符をつかんだ。8月27日のヤクルト戦(帯広)、7回2死一塁で代打出場し右前打を放った。

 「スライダーを打ったのは覚えてます。館山(昌平投手)さんでしたね」

 プロ初打席初安打の鮮烈デビュー。翌日の新聞には「赤ゴジラ2世」「左の大砲候補」の見出しが躍ったが、吉田さんは「左(打者)で投手から転向したからだけですよ」と恐縮するように首を振った。1軍昇格についても「あの年は、ほとんどの選手が1軍に上がってるんです」と控えめに語るが、6月上旬からウエスタン・リーグの4番に固定され結果を残しての抜てきだった。

 7月の巨人戦では「7番一塁」でスタメン出場し西村健太朗投手から左前打。その年は1軍で16試合に出場した。

 07年にはプロアマの若手主体で構成された北京五輪プレ大会の日本代表に選出され本塁打を放つなど主軸として優勝に貢献し、星野仙一監督を胴上げしたことも。だが若き大砲候補に、その後1軍でのチャンスはやってこなかった。

 7年のプロ野球人生だった。

 「プロに入った時、全然レベルが違うじゃないですか。それを目の当たりにして、やばいぞって思いましたからね。そこから肩を壊して1年間棒に振ってという感じだったんでね。7年できるとは思ってなかった」

 入団当初に受けたという衝撃、その後の平坦ではなかった道のりをたどった。野球選手であり続けるために背負っていたものを下ろすと、心は軽くなったという。

 「別なことをやりたいってしか思ってなかったんで、別のことをやるのは楽しかったですね。寝てる時にみる夢が切り替わったのはうれしかったです。野球の夢ばかり見てたので」

 退団後も広島に残り、鉄板焼き店で修行を始めたころを懐かしんだ。

(デイリースポーツ・若林みどり)

 ◇吉田圭(よしだ・けい)1984年7月4日生まれ。東京都出身。帝京高3年時に夏の甲子園に「5番左翼」で出場しベスト4。2002年度のドラフト2位で広島入団。左肩の故障で2003年秋に投手から外野手に転向。06年8月26日のヤクルト戦でプロ初出場。プロ在籍は7年で通算16試合24打数3安打2打点、打率・125。07年の北京五輪プレ大会の日本代表として優勝に貢献。20年から東京・人形町で広島鉄板焼き・お好み焼きの店「さぶろく」を営む。

関連ニュース

編集者のオススメ記事

インサイド最新ニュース

もっとみる

    主要ニュース

    ランキング

    話題の写真ランキング

    写真

    リアルタイムランキング

    注目トピックス