【野球】帝京3年の夏の甲子園ベスト4 監督との個別ミーティングで初めてプロ入り意識 元カープの吉田さん
東京・人形町で広島鉄板焼き・お好み焼き店「さぶろく」を営む吉田圭さん(41)は広島カープOBだ。帝京高時代は投手兼外野手として活躍し、3年時には夏の甲子園に出場。名将、前田三夫監督のもとチームは勝ち進み、準決勝で智弁和歌山に敗れたもののベスト4入りを果たした。開幕試合となった初戦、吉田さんはファインプレーで相手に傾いていた流れを止めた。甲子園での熱戦、プロへの道が開けていった当時について聞いた。
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2002年8月8日、吉田さんは「5番左翼」で甲子園の舞台に立った。
開会式直後の開幕戦がチームの初戦。中部商(沖縄)が相手だった。
「途中まで余裕で勝ってたんですけど、すごい猛攻を受けまして、危ない感じになっていったんです」
初回に5点を奪ったのを皮切りにチームは大勝ムードとなっていたが、9-1で迎えた七回に暗転。失策や不運な安打などが重なり、7点を奪われ1点差に迫られた。
絶体絶命のピンチを吉田さんが救った。
2死二塁から相手打者が放った打球は左翼を越えるかという大飛球。俊足の吉田さんは背走しながら、懸命に腕を伸ばして打球を好捕した。
その瞬間を捉えた写真は当時のデイリースポーツに大きく掲載されている。写真を見た吉田さんは「うまい人だったらこんな捕り方にはなってないですよ。僕は守備、うまくないですから」と控えめに言うが、「相手に行ってた流れは止めたかもしれないですね」とうなずいた。
同点打を阻止した吉田さんは、続く八回にも相手の勢いを断ち切るダイビング捕球を披露。チームは11-8で初戦勝利をもぎ取った。
その試合で2安打2盗塁と攻守に活躍したが、印象に残っているのは試合後、宿舎で行われたミーティングでの前田監督の姿だという。
「ご立腹でしたね。しょうがないんですけど。メチャクチャ切れられましたね。ミーティングがとにかく長かった。監督は結構強烈なことを言ってましたね」
拙攻、拙守が出た初戦への苦言は続いた。
甲子園で春夏通じて3度の優勝を誇る名将はどのような監督だったのだろうか。
「勝ちに対しての執着がすごかった。徹底してましたね。気の抜けたプレーには厳しかったです。『ドンマイ』がなかったので。選手間でも結構、『何やってんの』みたいにバチバチ言い合ってましたね」
当然ながら練習も厳しい。吉田さんの高校時代、グラウンドはサッカー部と共用で、卒業後に野球部専用の広大な施設が完成した。「今の環境はめちゃくちゃいいですけど、あんな広いところで同じ練習をやってたら大変でしたよ。(当時は)狭いからラッキーでした」と苦笑する。
甲子園で初戦敗退の危機を乗り越えたチームは勝ち進んでいった。
エースの高市俊投手(元ヤクルト)が2回戦で光泉(滋賀)を5-0と完封、3回戦では猛打が爆発し福井(福井)に17-7で大勝、準々決勝では尽誠(香川)を5-4でくだした。95年以来3度目となる夏の大旗へ期待がふくらんだが、準決勝で智弁和歌山に1-6で敗退。ベスト4で高校野球は終わった。吉田さんは全試合で5番に座り、打率・353、17打数6安打5打点の成績を残した。
敗戦後、宿舎に戻ると3年生は個別に監督から呼ばれた。
「今後の進路について個別ミーティングがあったんです。監督から、プロから誘いがありそうだぞと言われましたね。びっくりしました。来ると思ってなかったし、とりあえず両親と相談します、と言った気がします」
作文などで自身の夢について「プロ野球選手」と書いていた記憶はあるが、あくまで夢だった。
甲子園での登板機会はなかったが、3年時の東東京大会、準々決勝で吉田さんは芝浦工大高を九回1死までノーヒットノーラン投球を披露するなど、左腕から繰り出される威力ある速球は評価を得ていた。同時に大型スラッガーとしてもプロから注目を集めていた。
帰京後、ロッカーの片付けをしていると前田監督に会った。「どうするんだって聞かれたので、全然決まってなかったんですけど、お願いしますって言ったんです」
11月のドラフト会議。吉田さんは広島から投手として2位指名を受けた。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇吉田圭(よしだ・けい)1984年7月4日生まれ。東京都出身。帝京高3年時に夏の甲子園に「5番左翼」で出場しベスト4。2002年度のドラフト2位で広島入団。左肩の故障で2003年秋に投手から外野手に転向。06年8月26日のヤクルト戦でプロ初出場。プロ在籍は7年で通算16試合24打数3安打2打点、打率・125。07年の北京五輪プレ大会の日本代表として優勝に貢献。20年から東京・人形町で広島鉄板焼き・お好み焼きの店「さぶろく」を営む。





