【野球】ON決戦でスタメン出場も痛恨の悪送球「今までの全部が崩れ去った」 戦力外通告されホークス一筋16年の現役生活に幕下ろした湯上谷さん
王貞治監督率いる福岡ダイエーホークス(現ソフトバンク)は1999年に続き、2000年もパ・リーグを制した。その年のセ・リーグ覇者は長嶋巨人。史上初めてONが対決する日本シリーズは世紀の決戦として大きな注目を集めた。現在、福岡市内の「りらくる」でセラピストとして働く湯上谷竑志さん(59)は、巨人に王手を許して迎えた第6戦で初めてスタメン出場したが痛恨のミスを犯してしまった。「今までのことが全部、崩れ去った」と悔やむプレーとは。
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引退から25年がたっても、湯上谷さんの心から、あのプレーが消えることはない。
「結局、悪送球で終わっちゃったわけですよ、日本シリーズは」
ひょうひょうとした口調に寂しさが漂う。
「世紀の」と呼ばれたON決戦は王ダイエーの連勝で動き出した。しかし、チームはそこから3連敗。王手をかけられ、敵地・東京ドームで10月28日、第6戦は始まった。
「小久保(裕紀=現ソフトバンク監督)が満身創痍(そうい)で出場してたので、仕方なく俺が使われたんです」
日本シリーズ中に脇腹痛を悪化させて出場が不可能になった小久保選手に代わって、湯上谷さんは初めてスタメン起用され三塁守備に就いた。99年に痛めて手術した右肩の不調を引きずり、2000年シーズンも出場試合は減少していたが、大一番で出番が巡ってきたのだ。
1点リードで迎えた三回の守備。先発の永井智浩投手が仁志敏久選手に同点二塁打を許し、さらに2死三塁の場面。打席の清原和博選手がホームベース上に叩きつけた打球は高くバウンドしながら三塁線を襲った。猛チャージした湯上谷さんは、体勢を崩しながら捕球しジャンピングスローを試みたが、送球は一塁から大きくそれていった。
「ファウルかフェアか分からない状況だった。ボールを捕りに行った時に、城島(健司捕手)が“さわるな”って声をかけてきた。でも、もう避けられない、行くしかないって距離で。行って投げたのが、悪送球になった。フェアのまま来るだろうなとは思ったけど、その一言がやっぱりちょっと、迷いになった」
そして続けた。
「言い訳にならないですけどね、自分で捕りに行ったわけなんで。清原の足とどうかなって計算しながらやってるわけなんで」
瞬時の判断を求められた際どいプレーを回想した。
清原選手の打球はタイムリー内野安打となり、三塁から勝ち越しの走者が生還。直後には一塁に清原選手を置いて松井秀喜選手が渡辺正和投手から中堅に2ランを突き刺し、試合の流れを決定づけた。王ダイエーはON決戦で敗れた。
公式記録上、湯上谷さんにエラーはついていない。正確な送球ができていたとしてもタイミング的に間に合わないとの判断がくだされていたのだろう。
だが本人は「いや、(エラーが)ついてるでしょ?内野安打になってるの?」
あの日からずっと、自身の送球はエラーだったと信じて疑わず、忸怩たる思いを抱え続けてきた。だが、それは記録の問題ではなくプロとしての矜持だったのか。大一番で犯した悪送球は、自身のプロ野球人生にとって痛恨のミスとして刻まれている。
「悪送球のおかげで、今までの全部が崩れ去った。もう本当にどうしようもない。自分の中でもどうしたらいいのか分からない状況になった。あの1プレー、あの出来事がいろんな意味で大きく状況を変えていきました。たぶん、引退するのもそうだし…」
日本シリーズ終了から3日後の10月31日、球団は湯上谷さんの引退を発表した。
「来季に向けて再スタートと思って、ウエートトレーニングをしてたら、球団から電話がかかってきて、事務所に来るように言われた。片隅の倉庫みたいなところで“来季は契約しない”って言われましたね。俺の扱い、こんな感じで終わるのかって悲しくなって、声も出なかった」
事実上の戦力外通告を受けた日を振り返った。
南海に始まりホークス一筋に生きてきた湯上谷さんは失意の中、16年でユニホームを脱いだ。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇湯上谷竑志(ゆがみだに・ひろし)1966年5月3日生まれ。富山県出身。石川・星稜高から84年のドラフト2位で南海入り。1年目から遊撃手として1軍出場を果たす。ダイエー時代の90年からは二塁のレギュラーとして活躍し3年連続全試合に出場。内外野を守れるユーティリティープレーヤーとして活躍し、2000年に引退。プロ在籍16年で通算1242試合、打率・258、141盗塁。ソフトバンクの育成、1、2軍の内野守備走塁コーチを務めた。現在はもみほぐし店「りらくる」福岡小笹店のセラピスト。





