【野球】湯上谷さんが見た“球界の寝業師”ダイエー根本監督「厳しさは目の奥に」「何も言わないのが一番怖い」

 福岡市内のもみほぐし店「りらくる」でセラピストとして働く湯上谷竑志さん(59)はホークス一筋16年のいぶし銀だ。石川・星稜高からドラフト2位で南海入りし、球団のダイエーへの譲渡後は、田淵幸一監督のもと福岡・平和台で正二塁手として活躍した。南海時代からの低迷を引きずるチームはその後、西武の黄金時代を築き“球界の寝業師”と呼ばれた根本陸夫氏、さらに王貞治氏を監督に招聘(しょうへい)していく。変革期を迎えた当時を湯上谷さんが振り返った。

  ◇  ◇

 93年からダイエーの二代目監督に就任したのは、西武の監督、管理部長として黄金時代の礎を築いた根本氏だった。

 1年目のキャンプで受けた衝撃を湯上谷さんは述懐する。

 「最初から紅白戦をやります、そのつもりで来てくださいって言われていて」。アナウンス通り、キャンプ初日から紅白戦が実施された。

 「キャッチボールを1時間ぐらいやったら、その後すぐに紅白戦。終わったら、はい、帰ってくださいって。えっ大丈夫かって思いますよね。小川史さんは(西武時代に)根本さんを知ってるからサーッと帰るんです。でも、これで西武みたいに強くなれるのか、絶対無理だと思うわけですよ」

 不安になり自主的に練習をしていると、帽子をかぶり後ろポケットに手を突っ込んだ根本監督がノソノソと近づいてきて「何してんの」と聞いてきた。

 「セカンドでゲッツーを取りたいから、ファーストに速く投げられるように練習してるんですと言うと、そうか、だったらいいよ、と。根本さんはスローイングだけはいろいろ(考えが)あったようで、練習するのもOKになった」と指揮官とのやりとりを明かした。許可を取り付けた湯上谷さんはスローイングに磨きをかけたという。

 「根本さんの厳しさは目の奥にありましたね。何も言わないんです。選手がどういう考えをもってるか、どういう練習してるのかを、たぶん見てるんですよね。何も言わないのが一番、怖いですよね。だから、自分でどうしたらいいのか、どうして打てないのかとか、常に自分たちで考えて、行動に移して、練習していく。これがあるから、やっぱり西武も強くなったのかなと思いましたね」

 根本イズムを自分なりに理解した湯上谷さんは、その後、自身の練習への取り組み方、意識が変わっていったという。

 「練習をせなあかんとつくづく思いましたね。若いヤツらも見るわけじゃないですか。小久保もそうだし、城島も、松中もそうですよ。やつらは練習、特に打つのが好きだから球場に早く来て打撃練習をするんですよ。僕はよくバッティングピッチャーをやりましたよ。自分が打ちたいんだけど、投げてばっかりいたなあ」

 93年度ドラフトで入団した小久保裕紀(現ソフトバンク監督)、同94年度の城島健司、同96年度の松中信彦(中日コーチ)ら、次世代を担っていくことになる選手たちと球場で早出練習をした日々を懐かしんだ。

 根本監督が指揮を執り、本拠地が平和台から完成したばかりの福岡ドームに移った93年の開幕戦。湯上谷さんは2番二塁でスタメンを飾り、主に二塁で117試合に出場している。しかし、チームは3年ぶりの最下位に沈んだ。4位に終わった翌シーズンは開幕戦で右足首を痛めて戦線離脱、若手の台頭などもあり試合出場は減少した。

 チームの土台作りをした根本監督は2年で退き球団専務となり、後任として元巨人監督の王貞治氏を招聘、94年10月12日に福岡市内で就任会見が行われた。

 「世界の王」と呼ばれ、理想に燃えていた新指揮官は、万年Bクラスに沈んでいた選手たちにとってまぶしすぎる存在だった。

 「うわー、すごい人が来たって。『おまえらにできないことはないだろう、何やってるんだ!』という感じで怖かったですね」

 当時の率直な思いを湯上谷さんは口にした。

(デイリースポーツ・若林みどり)

 ◇湯上谷竑志(ゆがみだに・ひろし)1966年5月3日生まれ。富山県出身。石川・星稜高から84年のドラフト2位で南海入り。1年目から遊撃手として1軍出場を果たす。ダイエー時代の90年からは二塁のレギュラーとして活躍し3年連続全試合に出場。内外野を守れるユーティリティープレーヤーとして活躍し、2000年に引退。プロ在籍16年で通算1242試合、打率・258、141盗塁。ソフトバンクの育成、1、2軍の内野守備走塁コーチを務めた。現在はもみほぐし店「りらくる」福岡小笹店のセラピスト。

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