【野球】プロ初登板でいきなり被弾→コーチも仰天の交代拒否「2軍に落とされるのが嫌だった」阪神の伝説の守護神・田村勤さん 1年目から50試合にフル回転
阪神の守護神として鮮烈な印象を残した田村勤さん(60)は現在、故郷である静岡に拠点を移しJA大井川に勤務しながら藤枝明誠高校野球部のコーチも務めている。1990年のドラフト4位で阪神入りし1年目に中継ぎ、抑えでフル回転。翌年は抑えとして前半戦で5勝1敗14セーブを挙げたが故障により戦線を離脱した。それ以降は肩肘の故障に苦しみながらの12年のプロ人生だった。
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現役を終えて20年以上たっても左肩の違和感はついてまわる。
「肩がね、ぶっ壊れてる感じなんですよね。スッキリすることはないです。普通に投げられることがないですから」
田村さんは諦観を漂わせる。
8月初旬に阪神2軍戦でファーストピッチセレモニーに登板したが、本番に向けて行った2週間前からの投球練習で、思うように動かない自身の肩の状態を改めて認識することになった。
社会人野球の本田技研和光からドラフト4位で阪神に指名された田村さんは、即戦力の期待を担って入団した。
初登板はもっとも深く心に刻まれているという。
「広島でいきなり先頭打者ホームランですからね」。プロ1年目、91年4月16日の広島戦。七回1死三塁の場面で先発の猪俣隆投手をリリーフしたが、最初の対戦相手だった小早川毅彦選手に2球目のカーブを右翼席へと運ばれた。
次打者にも安打を許したところで大石清投手コーチが交代のためマウンドに。だが、田村さんはこれを拒否した。
「2軍に落とされるのが嫌だったから、ボールを渡さなかったんです。知らんぷりしてたら、怒られました。そんなヤツ見たことないでしょ」
新人投手が見せた大胆不敵な態度に周囲もざわめいたが、首脳陣は田村さんのマウンドへの執念、心意気を受け止めた。その夜、大石コーチに呼び出された田村さんは、予想外の言葉をかけられた。
「『そんなに投げたかったのか、じゃあ、また、小早川のところで投げさせてやるわ』って言われました。マジかよって思いましたね」
2日後の広島戦。二回途中に2番手で登板した田村さんは小早川選手と対戦。右翼への飛球は犠飛になったがフェンスは越えさせなかった。
「そこからがスタートですからね。いきなり最悪のスタートだったんで。打ち取って、そこからだんだん上がれたって感じがします」
とは言え、当時の阪神は暗黒時代と呼ばれる低迷期にあった。ルーキー左腕には過酷な登板が課せられた。
「初回からリリーフにいったり、先発投手と並行して肩を作ったり。3イニング投げたりとか。それがしょっちゅうだった」
50試合で投球回は59回3分の2。結果的に自身最多タイとなる登板をした1年目のフル稼働は、その後の田村さんの現役生活に影を落としていくことになる。
抑えでの起用を言い渡されて迎えた92年シーズン。左サイドから繰り出される威力ある直球で打者を圧倒し、田村さんは好調なチームの勝利を守り、守護神としての地位を確立する。だが、7月上旬に左肘は限界を迎えた。
「アマチュア時代は自分の肘が壊れるなんて全くなかったんで、投げられなくなることはないと思っていました。これくらいだったら大丈夫だってずっと思っていた。これはまずいとか、指標がなかった」
違和感や痛みがありながらも、異変をやり過ごした過去を振り返る。
前半時点で24試合に登板し、5勝1敗14セーブ、防御率1・10という成績を残して戦列を離れた左腕は、シーズン中に復帰することはできなかった。
阪神は11年ぶりに前半戦を2位で折り返し、優勝争いを繰り広げたが、守護神不在の穴を埋められず、ヤクルトの後塵を拝した。
93年のシーズン途中から復帰した田村さんは、当時の球団記録となる10連続セーブを含む自己最多の22セーブを挙げたが、その後も肘、肩の故障と折り合いを付けながらのプロ生活を余儀なくされた。
「今だったら、とっくに手術している話でしょうけどね。でも当時は手術の失敗も多かったので、手術して投げられなくなって現役を終わるのもどうなのかという不安もあった。手術しないでいくと自分の中で決めたので」
99年に阪神を自由契約となったのち、オリックスにテスト入団したが、2年間でユニホームを脱いだ。12年のプロ生活だった。
「自分では悪い状態でやり過ぎたなという感じはします。粘ったつもりではいましたけど、粘って残ればいいって世界じゃないですから。ファンを喜ばせないといけない世界ですから。とても見せられるような形で終われなかった」
ただ、そうした苦労を重ねた経験が、次のステージへと田村さんを導いていくことになる。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇田村勤(たむら・つとむ)1965年8月18日生まれ。静岡県出身。島田高から駒大、本田技研和光を経て90年のドラフト4位で阪神入団。プロ1年目から中継ぎとして50試合に登板、翌年は抑えとしてチームの優勝争いに貢献した。93年には自己最多の22セーブを挙げた。2000年に自由契約となりオリックス入りし、02年に引退。プロ通算287試合に登板、13勝12敗54セーブ。05年から兵庫・西宮で営んでいた「田村整骨院」を22年に閉院。現在は静岡のJA大井川に勤務。





