【野球】母校の甲子園初戦に合わせたドラ1右腕のプロ初先発 前代未聞の軽飛行機からの登板告知も エースも救援で投入
1982年に夏の甲子園の優勝投手となった畠山準さん(61=DeNA球団職員)は、ドラフト1位で指名された南海(ダイエー、現ソフトバンク)に鳴り物入りで入団した。1年目の初勝利はならなかったが、2年目には先発ローテーションの一角を担い5勝をマーク。規定投球回にも到達した。だが投手としてはそこから伸び悩み、5年目には引退の危機が迫ってきていた。
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ドラフト1位で獲得した甲子園のスター投手を売り出そうと、南海は異例のPR作戦を展開した。
予告先発がない時代だったが、穴吹義雄監督は8月10日の阪急戦で畠山さんがプロ初先発することを予告。母校、池田が夏春夏の3連覇に挑む、甲子園初戦に日程を合わせて話題を作った。
「なんか飛行機が飛んだんですよ、畠山が投げるって。大事にされてたんでしょうね。いろんなことをしてもらった」
球団は軽飛行機を飛ばして上空から畠山さんの先発をアナウンス、駅にも先発登板を告知するポスターを掲出するなど大アピールを繰り広げた。
注目を集めた初先発のマウンドで、畠山さんは新人離れした投球を披露した。7回を5安打無失点、勝利投手の権利を手にしてマウンドを降りた。ベンチは初勝利をつけようと山内和宏投手を八回から投入。しかし本来は先発の山内投手は九回に打ち込まれ痛恨の逆転負けを喫した。
「その年、最多勝(18勝)を取った山内和宏さんが、先発なのにわざわざ最後にいってくれたんです。申し訳なかったですよね。それほど勝たせようとしてくれたのはありがたいんですけど」
プロ初勝利は逃したが宣伝効果は絶大だった。本拠地の大阪球場には前日の3倍の観客が詰めかけ、その中には徳島から応援に駆けつけた畠山さんの両親の姿もあった。
甲子園球場では池田が太田工相手に8-1で白星発進。翌日のデイリースポーツの1面では畠山さんの好投と池田快勝の両方の話題が合わせて伝えられた。
プロ1年目の畠山さんは7試合に登板し、投球イニングは29回3分の2。
「次の年の新人王を狙わせるってことで、そこで止められたんですよ。その年に最後に投げた試合、阪急戦で僕、勝ってたんですよ。4回3分の2で、スコアは5対3。あと3分の1となると、投げてたら勝てたかなとか思いましたけど、しょうがないですね」
30回を投げてしまうと翌年に新人王の資格を持ち越せない。ベンチのギリギリの判断だった。
2年目にローテーション入りした畠山さんは夏ごろまでは防御率3点台をキープした。
「投手コーチの河村英文さんから、防御率を頑張れ、それだけ試合を作ってるってことだから、って言われて頑張ったんですけど、最後に息切れしてボーンと跳ね上がっちゃいましたね。最後はダメだった」
主に先発で32試合に登板、153回を投げて5勝12敗。防御率は4・24だった。
「勝ち星は5つだったんですけど、12敗というのは勝敗がつくまで投げさせてもらってるってことなんです」
打線の援護に恵まれず負け数が大きく上回ったものの、先発として試合を任された証拠でもあった。
その年が畠山さんの投手としてのキャリアハイとなった。3年目は13試合、4年目は3試合と登板数は減少した。
「2年目に完封したり完投したりしてるんだけど、ピッチャーとして何かをつかみきれず、3年目以降はもがいた。2年目の時にしっかり野球に取り組んでいればよかったかなと悔いがありますね」
5年目を迎えた時には2軍戦でもほぼ投げることはなく、1軍の手伝いにかり出され打撃投手を務めることもあった。自信を失った畠山さんの生活は荒れていった。
「寮の規則とかも守ってなかったんで球団に呼ばれて、もう辞めますわみたいな話をしたり。投げるのは多分ダメだなと思った。プロの世界では通用しないし、その時にユニホームを脱ぐ覚悟っていうのはできてたのかもしれないですね」
瀬戸際に立たされていた当時の心境を静かに語った。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇畠山準(はたやま・ひとし)1964年6月11日生まれ。徳島県出身。池田高の4番投手で82年の夏の甲子園優勝。同年のドラフト1位で南海入りし、2年目に5勝(12敗)。88年に野手に転向。90年に自由契約となり、91年に大洋にテスト入団。93、94年は外野のレギュラーに。投手として55試合で6勝18敗、防御率4・74。打者として862試合で483安打、57本塁打、240打点、打率・255。球宴に3度出場。投手、野手で規定投球回、規定打席に到達。




