【野球】「先生1人、大騒ぎしていた」心配性だった蔦監督 決勝の広島商戦では初の伝令も 悲願の甲子園V達成 池田のエース畠山準さん
ドラフト1位で入団した南海(ダイエー、現ソフトバンク)、大洋(横浜、現DeNA)で投打に活躍した畠山準さん(61)は現在、DeNAの球団職員を務める。徳島・池田時代は4番エースで甲子園に出場。決勝では広島商を大差で破り初優勝を飾った。同校にとっては3度目の決勝進出での悲願達成だった。誰よりも優勝にこだわり執念を見せた蔦文也監督との思い出を振り返った。
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準々決勝で「大ちゃん」こと早実・荒木大輔投手を打ち砕いた池田は、準決勝で東洋大姫路と対戦した。大会期間中「ずっと調子が悪かった」という畠山さんは、右肩痛も発症し苦しい投球を強いられた。
「過去に池田は、東洋大姫路とか兵庫県のチームといろいろ対戦して結構負けてるんですよ。蔦先生はジンクスとか、過去の対戦をものすごく気にするタイプなんで嫌がってたと思う」
立ち上がり制球に苦しんだエースは2点を先行されたが、直後に味方が同点に追いつき4-3のスコアで難敵を破った。
決勝前夜、甲子園近くの宿舎で畠山さんは蔦監督から部屋に呼ばれた。
「たぶん先生が一番優勝したかったんですよ。僕らも当然負けるのは嫌なんだけど、過去のイレブンの時も、箕島に負けた時もそうなんですけど、2回準優勝だったので、3回目は絶対に勝ちたいと、懇々と言われましたから」
部員11人の「さわやかイレブン」で準優勝した74年センバツ、箕島に敗れた79年の夏に続く3度目の決勝。監督生活30年の節目の年だった蔦監督の優勝への渇望を畠山さんは感じ取っていた。
広島商との決勝戦。やまびこ打線はいきなり爆発した。初回に打者9人の猛攻を浴びせ一挙6点を奪った。
「その時点でうちの選手たちは8割方勝ったと思ってるんですよ。僕、6点を取られたことはないので。でも1点返された時、先生1人、大騒ぎしてましたから。1点取られた、負けてるつもりでやれ、早く追いつけって。1回伝令も来ましたね。3年間で初めてでしたね。決勝戦は僕らが一番冷静だったかもしれないですね」
心配性の蔦監督は最後まで手綱を緩めなかったが、選手たちはのびのびと力を発揮した。
畠山さんは9回を2失点で完投し、4番としては待望の本塁打を左翼席に運んだ。
「最後に打てて、それが一番うれしかったんじゃないかな。クリーンアップで本塁打を打ってなかったのは僕だけだったので」
畠山さんらナインは決勝を前にひそかに集まり、優勝が決まったら蔦監督を胴上げする計画を立てていた。だが優勝の興奮、混乱から計画はすっ飛んだ。
「(応援団のいる)アルプスにあいさつに行くじゃないですか、その時にみんな忘れてたんです。僕は覚えてたんで『先生、胴上げしましょうか』って言ったら『いらん!』って行ってしまいました」
照れ隠しのあまのじゃくだったのか、悲願の初優勝をつかんだというのに蔦監督はなぜか怒っていたという。
胴上げは翌日、地元の池田町に帰ってから実現した。ナインの手で持ち上げられた蔦監督は、祝勝会場のレストランの天井に当たりそうになった。
有終の美を飾った畠山さんら3年生はその後、野球部の寮を出て、下宿生活を開始。自由を謳歌していると蔦監督から呼び出しを受けた。
「(後輩たちが)出場辞退になるようなことがないよう、3年生はちゃんとしろってものすごく説教されましたね。先生はそれだけ次の年に向けて必死だったんですよ。先生は教師なんだけど、生涯高校野球の監督で、甲子園に行きたいって、もうそれしか考えてなかったというか」
共に戦った1学年下の水野雄仁選手(元巨人)、江上光治選手を中心としたメンバーは翌春のセンバツで優勝、蔦監督は夏春の連覇を成し遂げた。
蔦監督の晩年、体調が悪いことを伝え聞いた畠山さんは池田町の自宅を訪ねた。
「人を寄せ付けてなかったらしいんですけど、会いたがってるから入れって奥さんが言ってくれて。先生とサシで話をさせてもらった。僕がプロ野球をクビになったりしてたんで、すごい心配してたみたいで。喜んでくれましたね。気にかけてくれてたのはうれしかった。なんだかんだありましたけど、3年間の恩師ですから」
2001年に旅立った監督への思いを静かに口にした。
(デイリースポーツ・若林みどり)
◇畠山準(はたやま・ひとし)1964年6月11日生まれ。徳島県出身。池田高の4番投手で82年の夏の甲子園優勝。同年のドラフト1位で南海入りし、2年目に5勝(12敗)。88年に野手に転向。90年に自由契約となり、91年に大洋にテスト入団。93、94年は外野のレギュラーに。投手として55試合で6勝18敗、防御率4・74。打者として862試合で483安打、57本塁打、240打点、打率・255。球宴に3度出場。投手、野手で規定投球回、規定打席に到達。





