【野球】引退勧告も王監督の計らいでコーチ兼任で20年目へ ベンチから必要とされ続けた吉田さんの野球人生

 巨人のV9戦士だった吉田孝司さん(79)は、1984年に現役生活にピリオドを打った。長嶋茂雄監督時代に正捕手となったが、のちに入団した山倉和博捕手の台頭によって出場機会は減少していき、世代交代を実感することになった。捕手という過酷な仕事に就きながら、在籍年数20年、19年にわたって1軍ベンチで必要とされた現役生活だった。

  ◇  ◇

 引退を決めた理由を尋ねると吉田さんは首を振った。

 「引退をしようじゃなくてね、もうしょうがない。年だし、肩もね。もう40近かったからね。専任コーチをやれと言われたんですよ。もうメインはずっと山倉だったから、しょうがない」

 日本シリーズで西武に敗れた試合後、球団からコーチ就任という形で引退勧告を受けた1983年、37歳当時を思い起こした。

 専任コーチになることを打診された吉田さんだったが、84年も1軍バッテリーコーチ兼任の選手として在籍20年目を迎えた。兼任コーチを務めることになった理由を吉田さんは打ち明ける。

 「監督1年目の王さんが気を利かせてくれてね。おまえ、まだ走れるだろ、じゃあ専任じゃなくて兼任にしておけ。その方が給料は下がらないだろって。その代わり選手がテレンコしてたら、おまえがしっかり引っ張ってくれよって。キャッチャーがケガでもしたら出てもらうかもしれないからなって」

 結局、選手として出場することはなかったが、王監督からの配慮に感謝した。

 自身の現役生活を振り返り「こんな長いことよくできたと思うよ。僕が入った昭和40年は、プロ野球の平均寿命は3年に満たなかったんじゃないかな。当時は7年在籍すれば年金がつく時代だった。高校から同時期に7人入ったけど、1年目で3、4人が終わった。高橋一三と、倉田(誠)と僕と3人は残ったけどね」

 ドラフト導入前の1965年春にともに入団し約10年一緒にプレーした2人の投手の名前を挙げた。

 入団した年から巨人はV9時代に突入。5年目に1軍に定着した吉田さんは、川上哲治監督のもと、森昌彦捕手に次ぐ2番手捕手としてV9に貢献してきたが、怒られ役も担ってきた。

 「川上さんに、あの大きい声で『おまえ、あそこでまっすぐはないだろ!』とか言われるわけです。よく怒られたね」

 その監督が退任間際にかけてくれた言葉は胸にしみた。

 「打撃ケージのところで『ヨシ、おまえにはよく怒ったな』って声をかけてくれて。『おまえを怒るのもあったけど、あれは周りのピッチャーに言ってたんだよ、おまえ、よく辛抱したな』って。それまで1回もそんな話をしたことがないんだけどね」

 川上監督に始まり、長嶋監督時代には正捕手として初めて優勝を経験、藤田監督、王監督まで4人の監督に仕えた野球人生だった。

 捕手の喜びを尋ねると「そりゃあ勝った時が一番うれしい。でも、帰って、明日のことを考えたら寝られなくなる。ちょっと大変ですよ。だからね、森さんにしてもそうだし、野村(克也)さん、古田(敦也)にしても、何千試合に出て2000本とか打ってすごいなと思う。スタミナもあるし。キャッチャーというポジションでよくやれたと思う」

 過酷な仕事であることを身をもって知っているからこその言葉だろう。

 多くのライバルとの競争にさらされながら、巨人という伝統球団で19年もの長い間、1軍ベンチで必要とされたのはなぜだったのか。

 「休み休みだからね」と謙遜しながら吉田さんは言った。

 「万が一の時に使いやすかったのかな。置いとくのがね、キャッチャーは故障が多いから。1軍ベンチ入りの数は、巨人で4番目ぐらいらしいね」

 22年の王氏、20年の森氏、柴田勲氏に続く19年という1軍出場年数に胸を張った。

(デイリースポーツ・若林みどり)

 吉田孝司(よしだ・たかし)1946年6月23日生まれ。兵庫県出身。市立神港(現神港橘)から1965年に巨人に入団。V9時代に2番手捕手として活躍し、入団10年目に正捕手に。84年に在籍20年で現役引退。通算954試合に出場、476安打、42本塁打、打率・235。76年の球宴で巨人の捕手史上初のMVP獲得。巨人でバッテリーコーチ、編成部長などを務め、2012年からDeNAのスカウト部長に就任、26年ぶり日本一の礎を作った。

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