【野球】甲子園から救急車で運ばれたV9戦士 麻酔なしの治療に悲鳴
巨人のV9戦士として活躍し、引退後は巨人、DeNAで編成部長などを務めた吉田孝司さん(78)。捕手という過酷なポジションで現役生活を送った20年はケガとも隣り合わせだった。川上哲治監督時代には本塁クロスプレーで左太ももを裂傷。救急搬送された吉田さんが受けた、聞いているだけで痛くなりそうな荒々しい治療とは。
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吉田さんの左太ももには過酷な捕手稼業を象徴する傷痕が刻まれている。
「6連覇(1970年)ぐらいのころだったかな」
そう回想するのは甲子園で行われた伝統の一戦での出来事だ。
「タッチプレーで、山尾(孝雄外野手)だったかな、スライディングで足を上げてきてね。昔はぶつかっても、ブロックで絶対止めなきゃいけなかった。俺の一応、得意技みたいな感じだったからね。それが左太ももに入ってね」
体を張って果敢に本塁を死守しようとした吉田さんの左太ももはスパイクの歯で深い裂傷を負った。
救急車が手配され、担架で運ばれる吉田さんの耳には、患部を確認した牧野茂ヘッドコーチの「もうダメだダメだ」という落胆の声が聞こえた。
「血が出てなかった、中が白かった。脂肪まで(傷口が)いってた」。吉田さんは生々しく語った。
1軍の山崎弘美マネジャーが救急車に同乗してくれたが、搬送先の病院では信じられない展開が待ち受けていた。
「ドクターが言うんだよ。縫うんだったら、麻酔をしない方が早く治りますよって。そしたら、山崎さんが、じゃあ、麻酔なしでお願いしますって余計なことを言って。やまさ~ん、って感じよね。先生も、痛いですけどね、できますよ、大丈夫ですよって。ほんとに痛かった」
脂汗を流しながら処置を受けた。
「それにね、先生が普通は10針未満でもいけるけど、早く治るようにいっぱい縫っておきますって15針になった」
10針でなく、さらに5針、念入りな治療が施された。
こうした本塁上での走者と守備側の衝突によるケガを防ぐために、2016年にNPBはコリジョンルールを導入。走者の無用なタックルや、捕手のブロックなどを禁じ、走路を空けることなどがルール化された。だが、当時はケガを恐れない激しい接触が当たり前の時代だった。
治療を終えた吉田さんは幸い入院をすることなく、松葉づえをついて兵庫・芦屋市の宿舎に戻った。すると川上哲治監督から予期せぬ声をかけられたという。
「おまえ、まだ合宿だよな。じゃあ、実家に帰れって。お母さんに電話して次の日迎えに来てもらえ、抜糸までこっちにおれって言ってくれたんですよ」
神戸市にある実家への突然の帰省許可だった。翌日の宿舎には迎えの母以外にも来訪者があった。ケガを負わせた選手が菓子折りを持って謝罪にやってきたという。
麻酔なしの丁寧な縫合が奏功したのか、吉田さんの回復は早かった。「一週間くらいで抜糸したかな。それで東京に帰ってね」
戦列復帰までのいきさつを振り返った。
「でもねえ、あれもアウトだったから、かっこよかったけどね。あれがセーフだったらね、ケガはするし…」
一歩間違えれば、アウトも取れず、さらに大きなケガを負っていた可能性もあった。
試合には勝ったのだろうか。
「勝ったと思うよ。そうじゃなかったら、川上さん、あんなこと言わないよ」
紙一重のプレーで故障を負いながらもホームを死守し、ご褒美をもらった日を思い起こした。(デイリースポーツ・若林みどり)
◇吉田孝司(よしだ・たかし)1946年6月23日生まれ。兵庫県出身。市立神港(現神港橘)から1965年に巨人に入団。V9時代に2番手捕手として活躍し、入団10年目に正捕手に。84年に在籍20年で現役引退。通算954試合に出場、476安打、42本塁打、打率・235。76年の球宴で巨人の捕手史上初のMVP獲得。巨人でバッテリーコーチ、編成部長などを務め、2012年からDeNAのスカウト部長に就任、26年ぶり日本一の礎を作った。





